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文化人として名を成した
早島領主13代目の人
「戸川安宅(やすいえ・残花)」

 私がこの人のことについて調べようと思ったのは、早島公民館から早島の江戸から明治にかけての歴史につい て講演を頼まれたのがきっかけでした。
 調べてみるとこの人、なかなかに面白い!何しろ「残花」という名前まで持って、明治から大正にかけての日 本の文壇で大活躍しているのです。
 それが、早島(今の岡山県都窪郡早島町)の旧領主(3,000石)の13代目だったのです。  だいたい郷土史というもののなかでは、その領主についてはあまり詳しく調査されていないことが多いようで す。特に旗本で江戸にいて、知行地に来ない領主の場合はそういえると思います。で、調べてみたのです。

「戸川残花伝」が出版されていました

 そうすると「戸川残花伝」なる出版物があることがわかりました。戸川安雄という方の書いたもののようです 。試しに倉敷図書館で検索してもらいました。そうすると「神奈川図書館」というところにあり、なんと借りら れるそうでした(あとで教えていただいたのですが、早島町にもあったようです)。注文してしばらくして、そ の小冊子が届きました。すごい!
 その中を見ますと、まずはこの人の出生について「安政大地震の直後、母仲の実家新宮水野家の上屋敷で生ま れる」とあるのです。「安政大地震と同じ生まれだから覚えやすい。早島戸川家の江戸屋敷が地震の被害を受け たため、母の実家で生まれた」などと・・・。11代早島領主戸川安行の2男でした。
 ところが、13歳のときに兄の13代安道(捨次郎)が病弱で隠居し、2男の安宅に家督が回ってきたのです 。時に慶応4(1868)8月の事でした。大政奉還がその前年慶応3年10月(新暦11月)ですから、まさ に明治維新の真っ最中に幼くして旗本戸川家の家督相続、激動の中に投げ入れられたのです。
 安宅はその後、明治2年(1869)9月、早島を訪問、6ヶ月間滞在しています。
 明治3年、安宅は大学南校に入り、続いて慶応義塾、米人宣教師バラーの英語塾にいります。

キリスト教に入信

 この激動期に安宅はキリスト教に入信します。どうも当時の旧武士達の間ではキリスト教が流行していたよう で、帯江戸川家の江戸家老秋田氏もロシア正教に入信、帯江に帰った後、船穂教会の関わっています。
 22歳のとき妻波と結婚するのですが、波の父は向井秋村という著名な元旗本のキリスト教一家で、ここでも 安宅とキリスト教とのかかわりが濃厚に出てきます。
 明治初期、安宅は例にもれず武士の商法に手を出すのですが、「商才とソロバン(経営)が最も苦手」だった らしく、これも例にもれずに失敗。明治15年に就職先を求めて再び早島を訪れます。
 そこで出会ったのが、キリスト教の縁で西宮の伝道師の職でした。これが彼に合ったらしく「彼は文学的素養 とユーモアの心があり、軽妙洒脱な説教振りは評判になり、毎日曜の説教は押すな押すなの大盛況だったとか。 また他の宗教の批判はしなかった。」とあります。ここで自信を得たのでしょうか、家族も呼び寄せ、英語塾や 詩歌の講座を開いたりしています。
 この評判からか、岸和田教会、津教会など次々に声がかかり、明治23年には京都平安教会の牧師に就任しま す。そしてまもなく東京麹町教会牧師として転任するのです。牧師の給料は伝道師の10倍だったとか。

文学者としての活躍

 東京に帰ったこのころから彼の文学界での活躍が始まります。文学作品「撫子」発行、児童文学としては日本 初でした。このとき「残花」と号しています。
 「女学雑誌」、総合雑誌「日本評論」にほとんど毎号寄稿、「文学界」同人になり、彼の新体詩「(弔歌)桂 川」は絶賛されます。
 また「徳川武士銘銘伝」「ネルソン傳」「三百諸侯」「幕末小史」など出版活動にも力を入れます。そして「 史談会」、雑誌「武士時代」などの主管として活躍を続けます。
 また若き日の田山花袋、島崎藤村、正宗白鳥など多くの文学者を援助、娘の友人樋口一葉の縁談の世話もした とか。

教育者としても活躍

 一方で、安宅は特に女子教育にも力を入れます。封建のくびきから解き放たれた女性たちの教育は、当時の進 歩人の間では一種のステイタスだったに違いありません。明治女学校、女子学院、フェリス女学校、静修女学校 などの教師を歴任、日本女子大学校創立に参加し国文学教授になっています。

おや、仏教も?

 最期に彼は、大正7年、得度します。キリスト教牧師の出家として、新聞沙汰や話題になったようです。彼に とってキリスト教と仏教は、当時の国家神道に圧迫されていたという共通性を持っていたのかもしれません。
 関東大震災(大正12)の翌年に、波乱の生涯を閉じた戸川安宅(残花)さん、早島に関連する著名人として 取り上げるに値すると思うのです。(2013,8)

追記:

 私がこの「戸川残花伝」を見てまず驚いたのは、この人が早島の戸川家とは直接の血縁が無いということでし た。早島の戸川家はお隣の帯江戸川家が江戸時代8代だったのに比べて、同じ江戸時代を13代ものひとが当主 として過ごしています。何回か養子に入ったりしていて、血縁も途絶えたことがあったようなのです。
 戸川安宅の父、戸川安行は丹後宮津城主松平伯耆守宗発の3男で、早島戸川家10代の戸川安民の娘さんのと ころに婿入りし、11代目になっています。その子の安道が12代を継ぐのですが、病弱ですぐに隠居、弟の安 宅が13代目となっているのです。ところがこの安宅の母親は、安行の先妻が亡くなったあと後妻に入った、紀 伊家家老新宮城主水野対馬守忠順の娘 「仲」なのです。安宅にとっては、早島戸川家はもちろんですが、丹後宮津松 平家、紀伊徳川家との関係がけっこう濃かったといえるようなのです。

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