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"鑑真和上" in 備中
 まったく驚きでした。まさか倉敷の歴史に鑑真和上(688-763)が出てくるとは。いえ、出てこられるとは?先にアップした 「"鑑真"が開基した倉敷のお寺さん・行願院と龍昌院のこと」での出来事です。まさか??、えっ・・・、あの鑑真和上ですよね~
 ミーハーの私としては、これはもう調べなくては収まりがつきません。というわけで、少し調べてみました。

「唐大和上東征伝」のこと
 調べてみますと、「唐大和上東征伝」という古い本があることがわかりました。解説本などもあるようですが、とにかく古い本です。でも、最近は「国立国会図書館デジタルコレクション」というところで古い本が公開されているようなんです。さっそく見ますと、ありましたありました。
 「唐大和上東征伝. 甲」とあります。おまけに「インターネット公開(保護期間満了)」とあるではありませんか。すごい!!
 貴重図書影本刊行会というところが昭和11年に出版された本のようですが、もちろん元はかの唐の時代に書かれたもの。ダウンロードして読ませて(あ、ながめさせて??)いただきました。

 でも例によって私としましては、ネットに載っていた「唐大和上東征伝・船の記録・訳者 西野ゆるす」という口語訳を読むことから調査をする事にしました。以下赤字はそれからの引用です。


 「大和上、諱(いみな=本名)は鑑真、揚州江陽県の人である。俗姓は淳干(じゅんう)、齋(せい)の弁士[こん]の後裔なり。鑑真の父は先に揚州大雲寺智満禅師に就いて戒を受け禅門を学す。・・・・
備前に土地をもらって、伽藍を建てた
 日本からの遣唐使などによる、度重なる渡海の要請に、困難な中何回も渡海を試み、失明しながらも、6度目にしてようやく日本に渡ってきた鑑真和上。天平勝寶6年(754)のことでした。そして、斜め読みながら探していますと、ついにその表記があったのです。(写真下左10行目~「唐大和上東征伝」より)
(天平)宝字元年(757年)十一月廿三日をもって、勅して備前の国の水田一百町を(大和上に)施す。大和上この田をもって伽藍を立てんと欲す。
 その後には奈良に唐招提寺を建立したとかの記事に行き当たります。残念、備中ではない。でもまてよ・・・。
吉備の真備が重要な役割を!
 そう、当時の出来事として、遣唐使のなかに吉備真備がいて、重要な役割を果たしていますね。また鑑真和上が日本に来てからも「勅使正四位下吉備朝臣真備」として会って天皇の言葉を伝えるなど、極めて大きな役割を果たしています。(写真上右5行目~「唐大和上東征伝」より)
 そう、吉備真備はもともと備中の人。
 ちょっと我田引水かもわかりませんが、「備前の田」が「備中の田」であったとしても、また、日本に来てから鑑真が死ぬ(763年)までの9年間に備中に来て別に「西安寺」を建てたとしても矛盾はないではありませんか。
 さらに鑑真の弟子の僧の誰かが倉敷(あ、備中)にきて鑑真和上の意思として「西安寺」を建立したとして、それが現代には「鑑真により建立された・・・」と伝わったのかもしれません。

 とにかく、「鑑真和上in備中(倉敷)」はますます面白くなってきました。でも今回はこのくらいにしておきましょう。(2018,6)

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