「倉敷の奈良・平安時代」のタイトルページへ戻る
日差山にあった山岳仏教聖地
今は庄地区全体に広がる日差山寺

 倉敷市の北部、総社市との境に横たわる福山山塊。中央の福山(302m)山頂には、古代に山岳仏教の『福山寺』が栄えていて、一山12坊の伽藍が並び繁栄を極めて、山全体が福山と呼ばれるようになった・・・。ということはよく知られています。

 しかし、その山塊の東の端、庄地区を望む「日差山(ひさしやま)」にも、同じように古代に『日差山寺』が栄えていたということはあまり知られていません。でも今回の取材で、一山17坊という山岳仏教の聖地が栄えていたことが明らかになってきました。

元日差寺の一部だったというお寺さん・西方院

 今回、「以前は日差山にいて、日差寺の一部だった。」というお寺さんがあることが分かったのです。早速訪ねてみました。倉敷市上東にある西方院というお寺さんでした。
 RSKバラ園の西方です。庄地区のほぼ中央でしょうか。奈良時代以来の条里制の名残でしょうか?古い人家のかたまりの中でした。
 その中に真四角の小さな堀がありました(写真下右)。どうやらかっての小字で「城の内」という一角にそのお寺さん、「西方院」はありました。本堂は新築に近く、きれいなお寺さんです。ご住職が出てこられて「あまり詳しいことは知らないんだけど・・・」と言いながら、幾つか説明していただきました。
 「江戸時代に庭瀬領主の戸川さんから日蓮宗に改宗しろと言われて、みんな改宗は嫌で戸川氏の領地から逃げるために、山から下りたんですわ。ここいら庄地区の今のお寺はみんなそうじゃあないかな?ただ昔のことで、物も残ってないし、都窪郡誌や庄村史で私らも知っているだけです。」

庄地区の北や南にも、寶泉寺と寶福寺
 次にお訪ねしたのは、庄地区の北部、矢部にある「寶泉寺」です。こちらは「日差山満願坊寶泉寺」と、日差山や当時の坊の名前まで掲げています。まさに「法灯を守る」という言葉そのものだなと感じました。素晴らしいですね。

 もう一軒、南部の下庄にある寶福寺です。こちらは後年2つのお寺「寶性寺」と「霊福寺」とが合併して寶福寺となったそうです。これら三寺はいずれも日差寺の一部、見松坊などであったのが、江戸初期に弾圧にあい山を下りたということです。その後こうして地元の人々に守られながら、数百年を過ごしてきたようなんです。

報恩大師が作った大伽藍17坊の全貌が

 「都窪郡誌(大正12年発行)」や「備中誌都宇郡(明治35年発行)」には「日差寺旧跡」として、およそ次のような記述があります。(略多く、文責本稿著者)


 日差山日差寺は開山は報恩大師で、天平勝宝6年(754)伽藍を日指の山峰に造る。本堂に正観音像を安置す。薬師堂、愛染堂があったという。その他堂塔数多くあった。

 興聖坊、多門坊、玉蔵坊、浄土坊、曼荼羅坊、満願坊、井上坊、養福坊、見松坊、成福坊、持寶坊、吉祥坊、寶厳坊、寶蔵坊、石橋坊、大蔵坊、實相坊
 そのほか山の下にも、神皇坊、圓光坊、百々坊、槙山坊、受法坊などあり。

 報恩大師は、孝謙天皇の病気を治したことにより「報恩大師」の名を授けられ、また桓武天皇の病気も直して、神宮寺を中心にして備前に48寺を建立した。そのあと「日差寺」なども建てた・・・・


 山岳仏教(天台宗、真言宗など)の修行所だそうですが、ここ日差山にも奈良から平安時代に巨大な山岳仏教の聖地が営まれていたことは間違いなさそうですね。でも、今は1つのお堂があるだけ。なぜなのでしょうか?

江戸時代初期の弾圧で、ことごとく平地に移る

 これも同様に「都窪郡誌」に次のような記述があります。


 関ヶ原の後撫川城主戸川肥後守達安の領地となり、その子土佐守の代、領分の寺院ことごとく日蓮宗に改宗され、改宗しなければ「寺領を没収して滅却する」と言われ、寺僧怒りて山上の寺を所々に移す。寛永13年(1636)也。  (略)  山上の寺院はことごとく滅する。本尊観音は山地村の内田氏川へ流すという。
 ああ、なんと奈良時代から900年余も栄えた日差山寺院群も、時の領主の弾圧により滅亡してしまったようなんです。でも、でも・・・。今回の取材で「この庄地域に今あるお寺さんの多くが、当時日差山を下りたお寺」だということがわかってきました。

日差寺の今
 実は私、もう14年も前になりますが、この日差山を取材したことがありました。当時はもちろん「平安山岳仏教」だったということは知らなかったのですが。

趣味の古代吉備から吉備の春の国見・日差山から」
 当時の写真をいくつかここへも載せておきます。(2018,7)

inserted by FC2 system