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消えた!、2万人の兵士・真備町

 先日の「平成30年豪雨」では、全国で死者200人を超える被害を出しました。中でも倉敷市真備町では小田川とその支流が決壊し大洪水、死者も51人にも達する被害となりました。  その真備町に「二万(ニマ)」という所があります。そこで1,400年前、悲劇的な事件が起こっているのです。私の取材は「平成30年豪雨」の前の時点でしたが、以下にその時の記事を載せます。(ここまで追記、2018,11)


 倉敷市の西北部に、真備町二万(ニマ、上二万、下二万))というところがあります。古くは邇磨郷と言われたところです。ここには大変な伝説が残っているのです。
2万人の兵士が集まったところ
 新修倉敷市史2巻の52ページには、

 「このころ朝鮮半島では新羅が唐と結んで百済を攻め、斉明天皇6年(660)百済は日本に救援を求めてきた。孝徳天皇の死後重祚(ちょうそ)した斉明女帝は、翌年救援軍を編成して自らも船に乗り、九州に向かった。救援軍は合計3万2千人の大兵力であった(略)」

として、『備中国風土記』逸文や三善清行の『意見封事12箇条』(914年、当時の高官が天皇に提出した意見書)を引いて次のように述べています。
 「斉明天皇は筑紫に下る途中下道郡(今の真備町近辺)に宿したところ、ここは多くの家々があったので、天皇は詔を出して兵士を募った。すると2万人を得たので、この村を二万郷と名付けた。のちに邇磨郷と字を改めたというのである。これはやや誇張もあろうが、相当数の兵士が得られたことは間違いなく、その中には指揮官的な旧国造層も含まれていたのであろう。こうして備中方面からも多くの兵士が朝鮮半島に送られたと思われる。」

 今の倉敷市真備町の人口は約23,000人ですが、それにしてもその一帯から兵士が2万人とはすごい所ですね。

下は現在の倉敷市真備町二万地区の風景

その後、ほとんど人口がいなくなった邇磨郷
 ところが、同じ新修倉敷市史2巻の136ページには、その後の邇磨郷について・・・。
 「寛平5年(893年)に三善清行は備中介に赴任した。」としてその後提出した前記の『意見封事12箇条』によるとして、次のように書かれています。
 「ところが天平神護年中(765~767)に右大臣吉備真備が数えてみると課丁はわずか1,900人余り、ついで貞観年間(859~878)初めに藤原保則が備中介のときに課丁を数えると70人余り、三善清行が備中介の時には老丁2人、正丁4人、中男3人であった。また延喜11年(911)に備中介藤原公利が任を終えて都に帰った時(略)一人いるかいないか(略)この話は律令政治の衰退を示す話として有名であるが・・・」

 えっ、でもそれ(律令政治の衰退)だけではないでしょう。二万(邇磨郷)の人口減少の原因ははっきりしているのでは?と誰もが思うと思いますけどね。えっ、えっ・・・???

すぐあとがあの「白村江の戦い」だからです
 ちょっとここで時間を追って当時の出来事を列挙してみましょう。(以下Wikipediaなどを参照して作成)
  • 660年3月、唐、新羅とともに百済攻略戦を起こす。唐13万、新羅5万の大軍。
  •     7月18日、百済滅亡。
  •     8~10月、百済復興運動(唐が北の高句麗攻略に向かったあと)
  •           百済残党、倭に救援要請。
  • 661年、斉明天皇兵を集め九州へ(兵士3万2千人)。
  •     5月、倭軍第一派が出発。1万人余、船舶170余隻。
  •     7月、斉明天皇、筑紫朝倉宮にて死去。
  • 662年3月、倭軍第二派(主力軍)が出発。兵士2万7千人。
  •        倭軍第三派、1万人余出発。
  • 663年 倭軍、唐・新羅連合軍のいる白村江河口へ突撃。火計、干潮の時間差などにより、大敗する。倭軍1000隻余のうち、400隻余が炎上。(注1)
  •      陸上戦でも倭軍は唐・新羅連合軍に敗れ、崩壊する。生き残った有力者は捕虜として連れ去られる。(捕虜返還は667年)
  •      その後天智天皇は、屋島などに防衛城を築くほか、都も遠い近江へ移す。
  • 669年、天智天皇、唐との関係正常化を図り、遣唐使を派遣。
    (以上)

     うーん、大変な事態だったのですね。きっと吉備地方が主力となっていた倭軍。斉明天皇の母は”吉備姫王”ということからも、そうおもわれますね。時の権力者の都合で兵士にされ、海外に送られて壊滅した倭軍、そのうち二万(邇磨)の兵士2万人は、何人が故郷へ帰ってきたのでしょう。

     それから一世紀後(765年頃)の邇磨郷は課丁わずか1,900人。250年後の911年には1人いるかいないか???の惨状だったのです。これがほとんどの働き手を戦場へ送られ、多くが帰ってこなかった所の惨状だと、なぜ言えないのでしょうか。

     いろいろ調べても、この邇磨郷の2万人のその後についての記述はどこにもないようなんです。まさか、当時から『タブー』だったのが、今でも続いているんでしょうか?(2018,6)

    注1:この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『日本書紀』)だそうです。最近どこかで聞いた事があるようではありませんか?

    上二万神社二万大塚古墳
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