, "小溝の渡しの「道しるべ」!!"
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小溝の渡しの「道しるべ」!!
 毎朝の散歩の途中、ちょうどKCT(倉敷ケーブルテレビ)の社屋の前に差し掛かったところでした。
 「うん、こんなのあったけ?」。道に面して何か新しいものが設置されています。
 よく見ると何か石碑のようなものです。「あれっ、例の地神様かな?」どうも違うようです。この地方の地神様は、5角柱という珍しい形をしています。しかしこれは、6角柱なのです。で、各面に神社名かその祭神名のような名前が記されているようです。う~ん。
 そこで、横の説明版(記事末)を読んでみますと、「これは昔ここにあった『東高梁川の小溝の渡し』の『道しるべ』です。」というようなことが書いてあります。
 おや、これは珍しい!!ということで、私の郷土史調査の虫がむずむずと・・・?
 で、私のこのホームページ、「郷土史はなぜおもしろいのか」の中に新しく「高梁川物語」という新しいページを立ち上げてみようと・・・・。
 な、なんと無謀なことを???年甲斐もなく???と思われる方々も多いことと思うのですが??
 ま、例によってあっちこっちと話は飛びますし、どうなることでしょうね???
 

今は無い『東高梁川』とは??

 さて、ということで『東高梁川』ってなんでしょう。というところから話を始めなくてはなりません。だって、今は無い川なんですから??
 そして、さらに今は、大勢の人がその昔の川底?に住み、生活している『川』なんですから。
 昔といっても、江戸時代より前は倉敷の町は「今の旧国道2号線」、もしくはJR山陽本線より南は海で、高梁川は備中地域を南下した後、今の酒津のあたりで海に注いでいたのです。
 それが、江戸時代の大干拓で連島を越えて、今の水島地区まで陸になりました。その時高梁川は東西2つに分かれ、西の川は今の高梁川で、東の川は酒津から東へ分かれ、児島と連島の間を流れ、今の水島地区を流れて瀬戸内海へと至っていたのです。
 下記写真はこの後に取材のために訪れた「足高(葦高)神社」というこの地方で古くて権威あるお宮さんの井上宮司さんからいただいた資料の中にあった古地図です。
 しかし古くから「暴れ川」としても有名だった高梁川。この東高梁川もたびたび氾濫(はんらん)を起こし多くの住民たちを困らせていたのです。
 それで、大正時代(1912~1925)に酒津に巨大な堤を築き、東高梁川を締め切って、洪水防止にしたということなんです。
 その後は「東高梁川の廃川地」には多くの公共性のある施設や、学校なども建って、多くの住民たちも住むようになって、現在に至るわけです。
 そこで、東高梁川があった当時の「小溝の渡し」にこの碑があったというわけです。
(2023,12)

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