古代吉備・東部中心地の史跡たち
ーー東岡山、山陽町方面の史跡めぐりーー

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 実は私、この春からご近所の多津美公民館のカルチャー教室「郷土史講座」に参加したのです。今日はその二回目、「館外研修、東岡山・山陽町方面」の旅ということになりました。みなさんとバスで、朝9時から夕方5時までまる一日かけて、古代吉備地方東部の中心地である東岡山から山陽町にかけての史跡を巡って歩くことになったのです。倉敷に住んでいますとなかなか訪れる機会のない場所ばかりで、快晴の東吉備路、まことに楽しい一日でした。

田んぼの中にデッカイ塔の礎石が(幡多廃寺)
   バスはまず原尾島から中原橋へ向かう途中、高島団地の手前を右折します。 旭川の東岸、操山と竜の口山にはさまれた平野部は、弥生時代以降水田が広がっていて、吉備地方東部の文化の中心地であったと推定されています。この2つの山々には数知れない古墳が存在し、それを裏付けています。そして竜の口山のふもと、祇園用水(平野を潤おすために旭川から導入した用水路)が流れるあたりには、いくつかのの巨大な寺院跡がのこされているのです。
 その1つ、幡多廃寺は岡山市赤田、バスを降りて住宅地を少し歩き、田んぼが開けたばかりのところにありました。少し前に発掘されたというこのお寺、現在では地表には塔の礎石が残っているのみ。直径2m近くありそうな巨大な礎石です。
 「お寺の他の石などは(後世に流用されて)残ってないのですが、これは大きすぎてここへ残ったのですね。」説明役の小野敏也先生が話されます。中央に約80cmの六角のくぼみ。」これが心柱の大きさでしょう。いったいどの程度の高さの塔だったのでしょうか?。さらにその中央には穴が空けられ「舎利孔」だそうです。出土した瓦から創建は7世紀末葉と考えられるのだそうです。またこのお寺の北に「備前国府」がおかれていたと推定されているそうです。

山すその古墳、唐人塚(かろうどづか)
  幡多廃寺から北へ、竜の口山にぶつかったあたりにあるのが「唐人塚古墳」でした。”幡多”は”秦(ハタ)”に関連し、古くから渡来人の意味ですが、その北の山に何と「唐人塚」とは・・?。古代のここらあたりは中国系渡来人が勢力をはっていたのでしょうか。
 石室の入り口は少し小腰をかがめて入れる程度ですが、奥の玄室は2.3mと十分な高さや広さがありました。中央には兵庫県の竜山石(「石の宝殿」で有名)製の石棺がいっぱいの水を貯めていました。蓋は岡山城で使われたのだそうです。
 30数名の参加者が順に奥に入って説明を聞く間、二匹のコウモリが飛び回っていました。コウモリ君、安住の時を驚かせてごめんなさいね。

備前平野の史跡たち
  唐人塚古墳からは竜の口山のふもとを徒歩で東の昼食地へむかいます。道々、足元にはきれいな水の流れる小川が続いています。「祇園用水」です。江戸時代に旭川の水で備前平野を潤おすために作られた用水路で、今はアユモドキやホタルでも有名です。
 この竜の口山のふもと一帯にはたくさんの史跡が、あ、あちらにも、おや、ここにも・・という具合に次々に現れます。唐人塚古墳のすぐ横には「賞田廃寺」、その東には今NHKの大河ドラマで放映されている北条時頼が職を引いたあと来たといわれる「最明院」、そして平清盛と争って敗れた時の関白藤原某氏が住んだという「関白屋敷」。そして鎌倉時代東大寺の僧重源という人が、浄土教布教の拠点としたという「浄土寺」。幾多の史跡が隣り合って存在します。さすがに東吉備の中心地だなーと驚かされてしまいました。
 そして、そのお坊さん「重源」が発見した温泉がここにあり、「湯迫(ゆば)」という地名になっているうえに、今では「湯迫温泉白雲閣」という温泉地になっているのです。倉敷の地元からもときおり老人会などが団体でやってきているのです。
 あ、私たちもここで昼食になりました。ごちそうさまでした。

3大巨石古墳、牟佐大塚
 バスは旭川沿いに北上。新大原橋を渡ってすぐ左側の集落で停車しました。山すその家並みのなかにあったのが巨石古墳「牟佐大塚古墳」でした。円墳でしょうか?、こんもりとした盛り上がりの南側にぽっかりと石室の口が開いています。これはデッカイ!!。人が十分並んで立って入れますし、奥行きも深く何と18m。全国第6位の大きな石室だそうです。足元に注意しながら奥まで行きましたが、う~~ん、深い。1つ1つの石も驚くほど大きく吉備地方の三大巨石墳に入るとか。奥の鏡石というのでしょうか、大きな一枚岩で平にきれいに削ってあるように見えました。
 石棺は井原の貝殻石を刳り抜いて上下2つを合わせているという小野さんの説明がありました。えっ、井原(岡山県最西部、50km余り離れている)から持ってきたのだ!!。でも備中の造山の上に有る石棺は阿蘇から運ばれた石で作られていることがわかっています。今から1600年以上も前に、遠くから大きな石を運んでいたものです。この古墳は古墳時代後期の6世紀末葉のものだそうでした。

稚媛(わかひめ)伝説の里には巨大古墳がありました
  古代吉備が大和に拮抗する勢力を持ちながら、次第に大和のもとに組み込まれていく過程に1つの悲しい物語があります。それが『稚媛(わかひめ)伝説』です。  その稚媛の夫、田狭(吉備上道臣田狭=きびのかみつみちのおみ たさ)の墓と伝えられているのが、岡山市のすぐ北、山陽町の「両宮山古墳」です。長さ190m、吉備東部では最大で吉備地方全体でも第三位の巨大前方後円墳です。
 バスは岡山市から山陽町へと入ってきました。まず左側の田んぼに見えるのが「備前国分寺跡」の看板。そしてそのすぐ東側が「両宮山古墳」でした。
 平地に作られた古墳で、盛り上げる土を採取したあとが平均40m巾という巨大な周濠(堀)となり、水を満々と湛えています。その向こうに見える巨大な森。さすが吉備に君臨した王の墓だとつくづく見入ってしまいました。
 周濠、周堤、周庭帯を含めると、何と全長340mにも達するそうです。
 まだ発掘されていないため詳細はわからないそうですが、形の特徴などから5世紀後半の築造と推定されるそうでした。

 造山、作山などいわゆる吉備路の古墳たちにはなじみが深い私達ですが、備前平野の史跡達には意外となじみがありません。昨年訪れた操山古墳群からこの山陽町に至る一帯、”上道(かみつみち)氏”が勢力を張っていたという備前地方は、吉備の一方の雄の拠点。こうして詳しい説明を受けながらの史跡めぐり、充実した一日を過ごさせていただきました。(2001,5)

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