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『福岡の市』周辺の遺跡を巡る
上道郡南東部の遺跡群

 久しぶりの「古代吉備国を語る会」例会への参加です。ほぼ1年ぶりでしょうか。最近「おひまでしょうから、これお願い」というお誘いが多く、「はいはい」と付き合っていますと、ついつい土日がつぶれてしまいます。というわけで、なぜかほぼ1年ぶりとなってしまいました。

西大寺駅の北方一帯を

 雨の翌日、強い北風の一日でした。JR赤穂線西大寺駅に集合して、その北側一帯を歩き回りました。およそ13キロ・・・。疲れました。
 このあたりは、古代の上道(かみつみち)氏の勢力範囲のようですが、小高い山にさえぎられたいくつかの小さい平野に別れ、大きな拠点にはならなかったようなのです。
 ただ、中世になると「福岡の市」が栄えた土地のようでした。私は実は「福岡」というのは今と同じ、吉井川の東側と理解していたのですが、中世までは吉井川がもっと東を流れていて「福岡庄」は今日歩いた地域の北部を含めて、吉井川の西岸地域にあったようなんですね。吉井川は中世にこの地域で大きく流れを変えたようなんです。あまり知識のない私にとって、本当に目を開かれる思いの一日ではありました。ありがとうございました。

宮山西塚古墳

 「西隆寺(さいりゅうじ)」という、いかにも古い伝統を思わせる地名が続いたすぐ北側にあった古墳です。横穴式石室は十分大型で、10数人が同時に入れるほどでした。珍しいのは「羨道」という玄室に至る誘導路の奥あたりに、「家型石棺」の身の部分のみが残っていることです。玄室に幾人かが埋葬されて、まだ残った有力者がここに埋葬されたのでしょうか?。
 ただこの古墳の次に対応するような古墳が無く、もう少し北西の上道氏が新開地に進出してきた、いわゆる分家筋のお墓かもしれない・・・などと想像されているようでした。  ここの北側の尾根には、10基あまりの古い古墳群があり、初期須恵器が見つかっているようで「前期群集墳」ということでした。

百枝月西畑遺跡と北の房古墳群

 前記の尾根の北側平野が「百枝月(ももえづき)」というところで、その背後(北側)に古墳が広がっています。またここからは銅鐸2個が見つかっているそうです。当時は吉井川はもっと東を流れていて、今の百枝月集落を中心に、弥生時代に銅鐸を祀るような大規模集落があったと推定されているそうです。
 ここは写真のぶどう畑開拓のときに見つかったそうです。
 この尾根続きには、さらに東へ今の吉井川に岸に至る古墳群(王子ヶ鼻古墳群)があり、5世紀以降の後期古墳群のようでした。

角山西塚古墳と茶の子山古墳

 「福岡」を対岸に見ながらの昼食。もっとも私たち一部は近所の浄水場近辺でゆっくりさせていただきました。「浄水場」といってもなんとも見事な建物で、高級感いっぱい。田んぼの中に大ホール?とも想像させるものでした。浄水場にこんなに立派な建物が必要なんでしょうかね?

 その南側の尾根筋にあったのがこの古墳です(下写真左)。直径20m円墳という、外観からはとても古墳とは見えない土盛りなのですが、石室はとても立派でした。大きな鏡石もあり、周囲に周溝もめぐらされた、本格的な後期古墳です。現在まで墳丘が残っていることから「千本突きなどの本格的な工法で築かれたもの」という説明がありました。素晴らしい!!
 そのお隣にあったこの「茶の子山古墳」(下写真右)。前方後円墳なのですが、手前の果樹園が荒れていて入れません。「入れば石室が見えます。」という説明がうつろに響くのみでした。

角山東塚古墳

  その尾根筋の先端に八幡神社がありました。吉井川にせりだしたところで、川の見張りにいい位置です。ところがこれは「角山東塚古墳」のあとで、裏手に石室の一部が露出していました。いちおう5世紀のものらしいということでしたが残念!。
 これらは昔の福岡郷をとりまく南の丘陵上にあるもので、中世の「福岡の市」へと続く人々の歴史を感じさせるものでした。
 このあたりは私も1度も来た事が無いあたりです。古代上道氏の勢力範囲の東端は、勢力があまり固定されていない時代が続いたようでした。いずれにしても後に九州に「福岡市」という大都会を生み出した「黒田氏」のご先祖様たちの土地なのでしょうか?そう考えるとなかなかに興味津々の一日でした。(2006,11)
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