倉敷の北の山「福山」は吉備の歴史を残していました |
1年余りご無沙汰していた「古代吉備国を語る会」です。「備南の要衝福山の寺院と城郭」と題して、倉敷市街地の北に広がる小高い山「福山」の遺跡めぐりです。近くに住んでいるのに、長いこと 行った事がない所です。たしか中学校の卒業のとき、友人たちと登ったっけ・・・。あ、何十年前だったか?? |
戦国山城「幸山(こうざん)城」は、わが親戚ゆかりです |
まずは、伯備線清音駅に集合。今日はお天気もよく大勢の人でした。100人は突破しているでしょうね。これから12キロを歩きます。 最初は福山の北側にある幸山城跡です。こうして清音側(西側)から見ると、福山から左(北)に、一段低く平らな尾根筋が延び、「あそこがそうです」と言われると納得してしまう景色です。 久しぶりの山登りです。日ごろ鍛えているはずなのに、きついきつい・・・。大丈夫かなー、我ながらいきなり心配になりました。それをよそに、どう見ても私より年配の方々が、軽々と歩かれます。あ、おいていかれそうです・・・。 やっとたどり着いた幸山城跡、150mだそうです。わりと狭い本丸(西の丸)?ですね。中央に深い掘切りをもうけて、東の丸と2つに分かれています。 「他の戦国山城と比べて本格的な城構えにはなっていない。ここは備中国府の近くで、地域的には重要な城にもかかわらず、鎌倉期の古代の城様式をそのまま使い、近代改装がなされていないのは、1つの謎です。」という説明がありました。なるほどなるほど。 「鎌倉時代、関東武士の庄氏が地頭でやってきて、この城を築いたのが最初。室町期には石川氏の居城で、石川氏は戦国後期には三村氏に属して毛利と戦い敗れた。」 そうそう、そのときに石川氏が自刃したのが、私の伯母が嫁いだ旧山手村の友野氏の一族の屋敷だと聞いたことがありますね。家老一族の立派な墓も親戚の近くにありましたっけ。親戚の先祖がかって家老を勤めたという幸山城の跡に立って、一種の感慨にふけってしまいました。 |
いわくら・磐座 |
そこから福山城跡への道中には2つの磐座(いわくら)がありました。巨大な岩をあがめた、弥生時代以来のものだそうです。さきの幸山城跡を含め、このあたり一帯に弥生土器が散らばっていて、当時(2000年前?)からこのあたりが宗教的聖地とされていたようです。岩によっては仏の姿が彫りこまれた(磨崖仏)ものもありました。 急角度の狭い道を、設置してあるロープにつかまりながら、苦労して上に上がりました。ところが2つ目の磐座、見事な石塔が上にあります。あんなところにどうやって運び上げたのでしょう?。「ヘリコプター説??」が飛び交っていましたが、もちろん当時そんなものはあろうはずはありません。はっ、ま、まさか「天の岩舟・・・」あ、これはもちろん冗談ですよ。
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福山廃寺跡と福山城跡 |
いよいよ福山頂上です。302m。おや、磐座を楽しんでいるうちに先発隊はもう到着してお昼時。景色も良いし、今日はお天気もよく、いい休憩です。 この福山、弥生以来の聖地?を引き継いだのか、平安時代には福山寺が建立されて、北の新山、東の日差山とともに、山岳仏教の拠点として栄えていたそうです。 それが、南北朝時代、南朝方の拠点となり、九州から攻め上る足利軍に敗れて全焼してしまいます(福山合戦=太平記)。その後に再建され、一山12坊を擁していたとの記録があるそうです。
福山城の城構えは、山頂の平坦なところに南北に5つの郭を配置したものだそうですが、堀切や大きな石垣などの防御装置は不十分というより、ほとんどなされていないようです。どうやら福山寺をそのまま山城に使っただけのもので、そこへ2000人で籠もって、足利軍30万人を迎え撃てば結果はあきらか。南朝方はその7日後には、湊川で惨敗するのですが、この福山を見ただけでも、想像がついてしまいますね。 |
お坊さんのタイムカプセルと浅原寺跡 |
さあ、ここからは下りです。足取りも軽く山道をたどっていると、「安養寺裏山経塚群」というのに行き当たりました。昭和13年と昭和32年の発掘で、3つの経塚が発見され、多くの瓦経や金銅製誕生仏など保存状態もよく、多くが重要文化財になっているそうです。ここの出土物は、後に見学した安養寺宝物館で見ることが出来ました。昔のお坊さんが、仏典を後世に残そうと埋めた経塚、今小中学校で流行っている?タイムカプセルと同じ?ですよね。あ、すこし違うか?? 安養寺の横には、「浅原廃寺層塔跡」の礎石群が残っていました。何重の塔だったのでしょう。今の安養寺とほぼ重なると言う浅原廃寺、さきの瓦経には西暦にすると1086年の記述があり、平安末期には存在していたのが確かなようです。
安養寺宝物館を見学できました。さきの経塚出土物のほか、おおくの古い仏像などがならんでいました。こんなにあると壮観です。安養寺本尊の毘沙門天の像が多いのですが、それがあまり個性がないのに比べ、踏んづけられた「天邪鬼(あまのじゃく)」の個性のあることあること。きっと彫師が、ここぞとばかりに天邪鬼で自己主張し腕を競ったのでしょうね。もちろん写真は取れませんでしたが面白かったです。 |
福山一帯に230基を超える古墳群 |
この山一帯には、弥生式土器が散らばっているというのは先に述べましたが、古墳群も大変な量で、230基を超えるということでした。これは古墳が多いことで有名な岡山市の操山より多いそうです。 西からの福山への登山道(1234段の幸福の階段だそうです)の下には、いくつかの古墳が移築されて、古墳公園として整備されていました。ちょうど梅の花が盛り、なかなか良かったです。(2009,1) |