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韓国は松の木の国でした
百済(ペクチェ)と吉備の関係は?

 ここでは珍しい外国レポートです。2004年正月明けのある日、私、友人と韓国に渡ってしまったのです。もっとも渡韓六回目という彼についていっただけですけどね。
 今日はそのなかで、百済(ペクチェ)文化が花開いたという公州(コンジュ)の報告です。

ソウルから南へバスで2時間余

 百済(ペクチェ)は、建国の地漢城(ソウル)から高句麗に攻められて、475年にこの公州に都を移します。それから64年間、この地での絢爛豪華な百済文化を残して、 再び扶余(プヨ、公州から西南へすぐ)ヘ都を移すのです。日本に仏教を伝えたという百済はこの扶余時代のようです。
 百済といえばこの仏教以外にも日本とゆかりが深く、その滅亡(663年)前後には日本も応援派兵して白村江で大敗北!、ついに都を飛鳥から近江に移す事態にまで発展しています。
 百済の公州時代は日本で言えば古墳時代後期、当時の百済最盛期はどういう時代だったのでしょう?という疑問にお答えする旅でもありました。

大スクープ、発掘中の公州の古墳に出会いました

 公州の古い中心地は川の南側なのですが、今回まず訪ねたのは川の北側の山裾で新発見の古墳群でした。「水村里(スッチョンリ)遺跡」だそうです。昨年末に発見が報じられ、韓国考古学史上に残る貴重な発見として韓国では大きく扱われたそうです。現地は発掘中で、ここを訪れた日本人はどうやら私達が最初のようでした。やった!!スクープ!!
 というわけで吉備に関係あるかどうかを無視してこのレポートとなります。  ここは約450~500年頃の古墳で、2つの山の中腹に見つかっていました。多くが石で囲ってあり、木棺なのでしょうか?。でもそのなかから出てきた副葬品が貴重なものだったようで、大きく取り上げられたようです。
 年代を信じるとすると、百済がこの地に移ってくる前の時代から百済時代の前半の有力者の墓のようです。百済がソウルからここへ都を移すわけですから、この地はその以前からの百済の有力な基盤だったはずです。百済王族の一族が支配階級として権勢を振るっていたことが想像されます。そういう意味で、次の「百済王室の墳墓群」の前の墳墓群として貴重な発見のようでした。

うーん。釣鐘型の『玄室』?

 次に訪れたのは、超有名な『武寧王稜』です。1971年に無盗掘のまま発見され、金銀を散りばめた豪華な副葬品多数を伴っていたため、韓国史上最大の発見と言われ、絢爛豪華な百済文化が花開いていたことが確認されたそうです。現地は公園として整備され、日本語も含めてわかりやすい展示がなされていました。
 でも私達を驚かせたのはその構造でした。公州百済時代の王室六代、山の中腹に墓が並び、ポカンポカンとふくらみがあります。そしてそのなかはみな煉瓦つくりの釣鐘状の墓室になっているのです。十数人が立って入って祈れるほどの広さで、石室というよりはまさに『玄室』というのがふさわしい見事な造りでした。
 武寧王(在位501~523)時代といえば吉備では古墳時代後期で、造山・作山の最盛期のあと、いわば吉備古墳時代の空白期にあたります。そのとき吉備勢力の多くが大和へ移動し、大和政権の中枢を占めたとも言われる時期です。百済の滅亡難民が日本にやってくるのはもっと後のことす。
 そのころの百済王室の墓を見れたのは幸いでした。そしてそれが先出の煉瓦つくりの玄室だったのです。こんな古墳は日本では見たこともありません。
 滅亡百済王室が日本に来ていたのなら、こうした墓制も少しは伝わっていたのではないでしょうか?
 百済からは仏教が伝わり、その滅亡期にはもう日本では古墳は作られなくなっていたのかもしれませんが?。う~ん。これは次の百済の都「扶余」で仏教との関連を調べないとこの疑問は解決できないようです。(2004,1)


左は連なる4代の墳墓。右は武寧王稜出土の金飾りなど

PS1:あ、タイトルのこと?。実は今回の初の韓国旅行でもっとも印象に残ったのは、『松の木』だったのです。韓国の山々にはたくさんの松林が印象的でしたし、高速道路の沿線にも松が街路樹よろしく植えられていました。最近日本では見かけませんが、昔の日本の風景を見る思いでした。日本で滅亡しかけている『松』が、韓国では象徴的な木となっているんだなーという思いで『韓国は松の木の国』というタイトルをつけさせていただきました。

PS2:百済はなぜ日本では「くだら」と読むのでしょう?。韓国では「ペクチェ」ですし、すなおな日本読みは「ひゃくさい・ひゃくせい」だと思うのですけれども。今回の旅ではついにこの疑問は解決しませんでした?。もしかしたら「韓国古語」か「中国読み」なのでしょうか?

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