東山(岡山市)は、古墳時代から墓地だった!

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 岡山市東山、そこは岡山市最大の墓地としてまさに全山墓地といってもいいところです。勿論火葬場もあり、私も親戚の葬儀などで訪れたことがあります。お彼岸のテレビニュースは必ずこの東山墓地の様子が報道されます。
 今日は「古代吉備国を語る会」という団体の催しで、1日この東山一帯を歩くことになりました。この「会」は年に数回、県下の遺跡をみんなで歩くことを中心にして、もう30年余り活動しているそうです。今回で第185回になるというとんでもない団体です。
 朝、岡山の市内電車の終点に近い東山公園入り口に集まったのは、どちらかといえば人生経験豊かな方々で、約100名。私などはどうも若いほうに属しているようではありました。「これではホームページのアクセスも増えないのはしょうがないか?」なんてよけいなことを考えているうちに出発です。

横穴式石室あらわに 操山107号墳
 おや、こんな珍しいお墓がある、などとあちこちながめながら行くうちに、先頭はその墓場の真ん中、ちょっと盛り上がった場所をずらりと取り囲んでおりました。みると、大きな石で作られた横穴がぽっかりと口を開けているではありませんか。「操山107号墳」だそうで、「古墳」というのがもっともわかりやすいものでした。径10mあまりの「円墳」だそうで、大きな石をたてて壁にしてあったり、整形のあとがあったりと、6c末から7c初の、古墳時代後期の古墳の特徴があるそうです。立って石室にゆうゆうと入れるので、安心してゆっくりさせていただきました。でも、本当に現代の墓と、1、400年前の墓とが隣り合って共存しているのには驚かされました。ここ、東山は、古墳時代から現代まで続く、岡山市民の墓地のようであります。

最古の部類に入る大古墳 網浜茶臼山古墳
 また墓地のなかをしばらく行くと、かたわらに大きな「山」が見えます。林と墓地とが頂上まで交互にあるようなものです。「あの、右のたいらになったあたりが前方部です。」といわれて初めてなるほど前方後円墳みたいだと、気付きました。「網浜茶臼山古墳」だそうで、長さは92mと大きく、前方部が低く、後円部には「古銅輝石安山岩(あの石器を作ったサヌカイトの一種らしいです)」があったり、都月型埴輪があったり、最古の古墳としての特徴を備えているそうです。旭川東岸では最古最大の古墳だそうです。
 
 すぐ南には、こんもりとした森がみられました。これが「操山109号墳」で、この「網浜茶臼山古墳」と同じ特徴があり、ここには古墳時代初期の2つの大きな古墳がペアであり、「どうもこの操山一帯では、このあたりから古墳の築造がじはじまり、徐々に東へ東へとすすんでいったようにみうけられます。」と説明されていました。なお、この「東山」一帯は、岡山市東南部の操山丘陵の1部で、その西南部一帯を東山と言うわけですが、古墳時代当時は海が入り込み、岬のように海に飛び出した丘陵地帯だったようです。ここには初期に近い古墳が数個、しかもでっかいものがあり、東北の操山に後期の古墳が100余もあり、しかも1つを除くと比較的小さいものが多いというのと好対象なのだそうです。

岡山市埋蔵文化財センター
 途中「網浜廃寺」跡を通過して、ことし新築オープンした「岡山市埋蔵文化財センター」を見学かたがた昼食となりました。遺物の収蔵や整理作業の施設や、一般への無料展示室もそろっていました。最近出た南方遺跡からのスプーンなど木器の数々、吉備の特殊器台、市内遺跡の立体地図など興味深いものが展示されていました。

団地のまんなかにでっかい古墳 湊茶臼山古墳
 埋蔵文化財センターから、東山の南側を廻るように、えんえんと歩きます。まるで歩け歩け大会のよう。みんな元気なのには驚かされました。このあたりは今は「平井」というところですが、平安時代には新田が開発されて「荒野荘」といわれる「春日大社」の荘園だったところだそうです。さらに、細い山道を入り込んで突然出たのは「操陽南山団地」という山の上の高級住宅地でした。そうです。東山の西半分は「全山墓地」ですが、東半分はこの「操陽南山団地」なのです。そこに「湊貝塚荒神遺跡」というのがあったそうです。団地開発の時の調査であきらかになったもので、中世の村のあとで、転々とはい貝のごみ捨て場がちらばっていた地域だったそうです。こうしたものは、岡山県南の丘陵地によくある遺跡だそうですが、詳細はわかっていないということでした。
 そこからさらに団地を抜けて上へ上へと上がりますと、突然竹林があらわれました。地図をみると、団地の真ん中にちょうど前方後円墳の形に緑地(山)が残されています。頂上に立つとなるほど東北に向かって、広い平地(前方部)が広がっています。「おー、これはすごい。」思わず思ってしまいました。標高100mほどの山の頂上に築かれた前方後円墳で、全長は130~150mもあるそうです。「海に張り出した東山のてっぺんに、東山で一番新しく、最大の古墳が築かれているのです。さっきの網浜茶臼山より新しく、(操山の最大古墳である)金蔵山古墳より古そうで、古墳時代前期の真ん中あたりのものと見られています。」ということでした。

  

最後は江戸初期の東照宮建築 玉井宮
 東山の中央には国際ホテルが建っていますが、「その庭先の人工の滝のすぐ上が、106号墳です」という説明と現場を横目にみながら、最後に向かったのが「玉井宮」でした。なぜここかといえば、ここは江戸の初期に池田藩が各藩と同じく「東照宮」をここに勧進したところで、そのときの(1645年)本殿が残っていること。とくに土台の石の細工などは当時の最高のものとしてすばらしいとのことでした。

 この会の今年の「冬場の遺跡めぐり」は秋まで中断だそうです。万歩計が18、000にもなっているのをながめて、「ふー、疲れた。でも、楽しかった。」と、1日で仲良くなってしまったみなさんと再開を約して、市内電車に席をしめました。(2000、5)

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