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井原市周辺の遺跡たち

 第212回古代吉備国を語る会です。今日は大寒波の襲来が予告されたためか、普段より少し少ない参加者のようでした。しかし寒波もまだ走りだったようで、快適な遺跡巡り日和の一日でした。
 やってきたのは岡山県南西部、井原市の中心部です。みな久しぶりの井原鉄道の旅を珍しがったり、料金の高さに驚いたりしながら、井原駅に下り立ったのです。ここは、備後地方から流れ下り高梁川へと合流する、暴れ川で有名な小田川中流域にあたり、山陽道が通る交通の要衝でもありました。案内では「後月郡(きつきぐん)南部の遺跡群」という名前でしたが、実質井原盆地の周辺を巡ったので、このレポートは「井原市周辺」にしました。

金敷寺と、県下最大の平安金剛力士像

 最初は井原駅西の谷間にある金敷寺(かなしきでら)です。平安の昔は十二坊の大寺だったそうですが、今は金敷寺と金鴫寺(かなしぎ)の2寺。山門に金剛力士像2体があり、「平安時代の金剛力士像はこの像を含めて全国に6例しかなく、岡山県下に残る平安仏のなかで最大の巨像である」と説明されていました。なるほど、左右どちらも360cmもの木造巨像。「憤怒の面相も何かユーモラスな鷹揚さを・・」そういえばそんなような。実は金網越しになんとか見えたもので、写真にはほとんど無理な感じでした。

 このお寺さん、奥の院への道中に、真新しい「日本100観音石仏」が立ち並んでいたのが私の個人的興味を引きました。「秩父○○番××坊」懐かしい限りです。この奥の院、20数年前まで老婦坊が居住されていたそうで、彫刻など今無住がもったいない、なかなかいい造りでした。

金敷寺裏山墳丘墓

 このお寺さんの奥の院まで来たのには理由がありました。そこからさらに裏山に登り、弥生墳丘墓へとたどり着いたのです。
 昨年秋の台風による風倒木をいくつもくぐりぬけて、やっと尾根道に出てたどり着いたのですが、えっ、そこはなぜか石室の天井石の上でした。し、失礼しました。2000年前のお方とはいえ、ついつい頭をふんずけてしまいました。ごめんなさい。
 ここは昭和40年代に倉敷考古館の間壁さんが調査されたところだそうです。例の「特殊器台」の破片が出ていたり、「熟年男性」人骨が発見されたり、なかなか興味深い遺跡のようでした。「熟年って、何歳なんだ?」参加者の間で交わされた会話、みんな自分の境遇に引きなおしての興味でしたが、なにしろ2000年前のことです。どうなんでしょうね??。。

那須与一ゆかりの古城はテレビ塔の下に

 田中美術館前の公園で昼食の後、小田川を東へ渡って、次ぎに出会ったのは「青蔭城跡」です。南へ突き出た標高90mの小高い丘の上で、井原盆地全体が見渡せる好位置でした。鎌倉時代以降の山城だそうで、那須一族とともにこの地にきた大山氏の居城だったそうです。そういえば、ここ井原市江原は那須与一ゆかりの地でしたね。この山城跡にはテレビ塔などが林立、双方の立地条件が同じなのが面白かったです。??。

興譲館は、徳川一橋家の学校でした

 東隣の丘には「興譲館高校」がありました。名門とは聞いていたのですが、無知だった私には珍しいことばかり。ちょうど卒業生のSさんが一行のなかにおられ、詳しい説明を聞くことができました。この地は江戸後期は徳川一橋家の領地で、幕末期に漢学者阪谷朗廬(ろうろ)を招いて創立された学校だそうです。現在創設当時の校門と講堂が残っていました。この2つは修理されたようで、わりと新しい趣でしたが、朗廬さんお手植えという梅は、さすが150年の老梅の雰囲気いっぱいでした。岡山県西部にも閑谷学校に匹敵する古い学校があったのです。
 そういえば、つい昨年末の高校駅伝で、この興譲館高校女子は準優勝の偉業をなしとげたのだっけ・・などと思いながらの見学でした。。??。

県道沿いにある2つの古墳

 次は一転、盆地の南側丘陵の遺跡です。井原駅から線路を越えて、南の丘に分け入った・・・と思ったのですが、そこは井原から笠岡へと出る主要な県道。その途中に2つの古墳がありました。
 まず最初の「権現平古墳」。県道の東側の山にぽっかりと石室が開口していました。井原市内の横穴式石室では最大級とか。

 そしてもう少し山の中に分け入った(笠岡方面にすすんだ)「東大谷1号墳」です。最近消防庁舎移転がここへ行われたため、急遽発掘調査のうえ、現状保存されたそうです。7世紀前葉、約10mの円墳だそうです。金銅貼馬具なども出土し、後月郡南部を支配する豪族の墓と想定されるということでした。。。??。(2005,1)

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