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歴史の古い岡山県西部
井原・笠岡郷土史研修から

 今日は多津美公民館の館外研修で、井原・笠岡の遺跡・旧跡を訪ねてまわりました。近くの多津美公民館の郷土史講座で、年に一回バス旅行があるのです。講師は小野敏也先生。今年はどうやら参加者が少なく、館で別に募集して集まった皆様も少なくありませんでした。

龍門の滝は水量いっぱい・大迫力でした

 井原市の北部、矢掛町との境界近くにある道祖渓谷は小田川の支流雄神川の最上流500mにわたって出来た渓谷で、輝緑岩の渓谷としては全国的にも珍しいものだそうです。上にある明治池からかなりの急斜面を流れ落ちていて、いくつのの滝がありました。遊歩道はよく整備されていますが、急斜面で難渋される方もおられました。
 この日は昨日来の雨で水量が多く、特に一番上の龍門の滝は大迫力でした。久しぶりにオゾンをいっぱい吸った気持ちになりました。

山中のお寺の、元国宝たち

 井原市中央部から真西の山に上がっていきます。オートキャンプ場として有名な経ヶ丸パークをすぎて、まだまだ山中へ分け入ったところにあったのが「高山寺(こうざんじ)」でした。ひなびた・・・という想像とは違い、真新しい立派な本堂が建っていました。「こんなところで、多くの檀家がいるのだろうか?」参加者の感想はそんなところにまず集中します。
 ところがこのお寺さん、真言宗大覚寺派の別格本山で、天平勝宝年中(749~756)行基が開創したと伝えられるそうです。かっては七堂伽藍が完備していた有力寺院だったそうです。
 あとで知ったことですが、戦国時代にはあの神辺城主杉原播磨守盛重が当山の堂塔を再興したそうです。そうと知れば杉原姓のHPの私にもまんざら縁が無いことはありません。もっとよく見てくるんだったと、ちょっとばかり後悔しました。
 経ヶ丸山も、このお寺創建のときに背後の山にお経を埋めたことから名づけられたといわれます。  この日は、特別に収蔵庫を見せていただきました。何と、元国宝という2体の仏像を間近に見ることが出来ました。どちらも今も国指定重要文化財です。
 赤い炎を背負った、恐そうな不動明王。明治の頃、京都八幡山のお寺さんから移ってきたと書いてありました。  また、地蔵菩薩立像も、室町時代の優秀作。もと河内国愛染寺蔵であったものが明治時代にここへ移ったもののようです。金色の光背を背負い、1木作りで、あちこちに金箔が残っているところからみると、最初は金ぴかの立派な像だったのでしょうね。思わぬいいものを見せていただきました。ありがとうございました。

 また本堂裏の「もっこく」の大樹も天延記念物だそうです。

嫁いらず観音院前でお食事

 井原市の南方、大江町に著名な「嫁いらず観音院」があります。今日はその前の岡田屋さんで昼食です。直前の説明??、「するとこのお料理は半分くらいはこのお店のみやげ物の試食に近いということに・・」などとあらぬことを考えながらでしたが、おいしくいただきました。
 おっと、「男やもめ奨励?」と誤解するむきもあろうかと思いますが、この観音様の由来は「嫁の手をわずらわす事が無いくらい、無病息災ですごせる。」というもの。なるほど、最近では「嫁楽観音」とも呼ぶそうでした。ただ3~40年前の押すな押すなの賑わいは今は昔。参道のみやげ物店も多くは廃屋化しているようでした。
 小野先生「ここは今は宗教法人になっていますが、かっては正式なお寺ではなく、観音様が村の人たちの信仰を集めていたものです。したがって住職などはおられないようですね。」と説明されました。

古墳群が見やすく整備されていました

 笠岡市の「長福寺裏山古墳群」を見るという予定に、何も知らない私など「いまどき山中に分け入ったら、まむしの心配などないのだうか?」と余計な心配をしてしまいました。しかし皆様?、ここは「かさおか古代の丘スポーツ公園」としてきれいに整備され、横の古墳群もその中央を散策路が貫いていて、真夏でも安心して見学できるところでした。すごい!


 なかで、「双つ塚古墳」は、墳長60mで、備中西部最大の前方後円墳だそうです。ほかに仙人塚古墳、東塚古墳と5世紀中~後半の大きな古墳が3つ並んでいました。5世紀といえば倭の5王の頃です。そのころ吉備中心部より少し離れたここ笠岡の地にも、有力者が活躍する時代があったのでしょうね。う~ん、「笠氏だったか?」(うろおぼえ・・・)

元小田県庁正門は、「妹尾戸川家」のものでした

 次に訪問したのは、笠岡小学校でした。見たのはその正門。明治の初期、短い間「小田県」がありました。その県庁がここにおかれたのです。そのとき「県庁の正門にふさわしいものを」ということで、妹尾戸川家の陣屋の門がここへ移されて、今に残っているのだそうです。
 実はこの門について、私のかかわった「備中領主戸川の時代」「豊洲の歴史」の2冊の本では、「帯江戸川家の陣屋から」と解説されています。一方で「妹尾戸川陣屋の誤りではないか」というお話もありました。私も気にしながらついつい真相究明を怠ってきたものです。それが、きょうここへ来て、見事に「明治5年、小田県庁が笠岡に置かれ、県庁の門として現岡山市妹尾の戸川氏陣屋門がここに移築されました。」と書いてあるではありませんか。う~ん、さきの2冊の本の間違い、チェック不足でした。申し訳ありませんでした。

寺の町笠岡のシンボル寺が移転して

 次は「遍照寺多宝塔」です。笠岡小学校がある前には笠岡市役所があり、今も笠岡市の中心部のようです。その一角はまたお寺の多いところでもあります。見れば一ヶ所で3~4寺が見渡せます。その一角にあったこの立派な多宝塔。寺の町笠岡のシンボルとしてこの地にあった遍照寺が昭和52年に埋立地に移転した後、国指定重要文化財の「多宝塔と付属の石碑」がこの地に残されたものでした。なんでも、元備中代官の小堀氏が慶長11年に建てたものだそうです。あ、小堀遠州のことなのでしょうね、きっと。
 私やみんなの興味を引いたのは、一階の屋根の上の出っ張った部分です。亀腹というそうですが、そこが瓦葺になっていることでした。普通は漆喰でかためてあると思うのですが、初めて見たために興味津々でした。でも解説を読めば、「明治の大修理のとき、漆喰から瓦葺になった」とありました。でも、珍しいものを見ることが出来て、今後の印象に残りそうです。

北大路魯山人の作品に接する

 最後は笠岡市の中心部にある、市立竹喬美術館でした。おりよく今日から北大路魯山人展が始まったばかり、幸いでした。  料理家であり、陶芸、漆芸、書、絵画と多彩な芸術で様々な作品を生み出した人です。死後50年になろうとしている今ですが、こうして作品を見ていると、現代の作家の作品を見ているような錯覚にとらわれます。それだけ先見性があり、大変な自由人だったのでしょう。  「う~ん、我が今頃言っている『10兎を追おう』をもう数十年前に実践したひとがいたんだ!!」を今日の結論にしておきます。(2007,7)

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