「趣味の古代吉備」のタイトルページへ戻る

西出雲の四隅突出形墳丘墓は「カナトコ」か?

 昨年の出雲旅行は森の熊さんのレポートに譲ってしまいましたが、今回は書いてしまおうかな?ということでパソコンの電源を入れてしまいました。
 そう、年1度の「古代吉備王国を語る会」バス旅行の報告です。5月最後の日曜日でした。実はこの日仕事が入っていたのですが、なぜか日程がずれてめでたく参加のはこびとなりました。<幸せ!
 雨の予報が出ているのですが、メンバー達の意欲はちっとも変わりません。バス2台にマイクロバス(タクシー)の3号車まで加えて、総勢100人近い参加者が、雨の西出雲を満喫してしまいました。

最初はあの「加茂岩倉遺跡」から

 そうなんです。何と言ってもここですよね。西出雲の聖地!、全国一の銅鐸の発見されたところ!。40個といいたいのですが、なぜか39個だそうです。入れ子(銅鐸の中に小銅鐸が入っている)状態で19組プラス1。
 でも本当は、ほとんどが重機で掘り出されたあとで気付いたため、正確なことはわからないらしいです。残された数組が現状保存(それもモックで)され、「ばけつらしいもの?」と思って掘り出されて集められた跡なども、なぜか現状保存されていました。「工事担当者が古代に興味が無ければ、そのまま破壊されていたでしょうね。」とは何とも現代日本の縮図のようで、悲しい思いもありました。
 農道工事の時、その上の斜面の掘削現場で当たってしまった?この遺跡です。右の写真のように、谷に沿って農道を作る時、そのはるか上の斜面を掘っていた重機が掘り出してしまったようです。農道は急遽路線変更され、ここは観光名所に早代わり?。
 でも、こんな人里離れたところに埋納されたのはなぜ?。いまだに解決しない疑問です。「谷の奥」。もしかしたらこの谷は、当時の大集落(都?)から少し入った場所だった?なんていうのは、私個人の荒唐無稽説です??。普通は「古代出雲王国」は弥生時代の想定ですから、平地に栄えたと思われているのですけど、当時の出雲はおそらく平地が少ないところと思われます(今でも海に山が迫っていて平地は多いとは言えませんが)。したがって、各谷沿いに人々の集落が形成されたのではないでしょうか?。多くは鉄鉱石や銅鉱石の産地のすぐ近くに?そして、つい裏山で祭祀が行われていて、この銅鐸たちが使われた!。この谷沿いにあった「出雲王朝」の都は、後に(鉱石の枯渇と共に)隣の谷(神庭荒神谷)に移っていく?そんな構図を夢見ながらの見学でした。
 例の「スサノオの命のヤマタのオロチ退治」は、八つの谷から鉱毒を流し続ける、製鉄・製銅集団と平地農民の戦いと言われます。八つの谷のうちの最大のもの(出雲王朝の都)がこの「加茂岩倉」だった!。あながち荒唐無稽説とも言えないのではないでしょうか?


右の写真、下が開発されようとした農道。その右上はるかに遺跡が見つかった。

「神庭荒神谷」遺跡は今!

 そして、見学は隣の谷にある神庭荒神谷遺跡へと移っていきます。個人的には以前に「出雲の杉原氏探求の旅」で一度訪れたところでもありました。岡山から分けられた?古代ハスの畑を見ながら上った「谷の奥」です。新設の博物館が工事中でした。
 きれいに並べられた銅剣の数々・・。弥生中期末から後期初頭(紀元前後)に埋められたようです。ということは、キリストさんのころなのですね。ふ~ん。そういえば「キリストさんも日本に来ていた」という荒唐無稽説もありましたっけ(竹内文書)。
 津島遺跡や上東遺跡など水田が広がっていた吉備に比べて、谷あいに全日本の半数の青銅器が埋っていた出雲。どうやら当時の「クニ」の事情はそれぞれだったようですね。「青銅器のクニ」出雲を訪れての感想です。

 

西谷墳墓群は、何なのか?

 次は「西谷墳墓群」です。出雲市の塩冶(えんや)という古い土地から、大津町という新開地へ出る境の山の上です。時代がちがうとはいえ、後世(江戸初期)に塩冶の杉原家が大津に出る拠点にしたというちょうどその位置に1,000数百年前の「弥生時代の墳丘墓」があるというのも何かの因縁なのでしょうか?片隅には塩冶から大津への街道の跡という案内板もありました。
 でも、ここで私はこの「四隅突出形墳丘墓」について新たな着想を抱いてしまったのです。「これって、カナトコじゃあないのかな?」なんて?。
 「金床」。そう、よくわかりませんが、鉄や銅を吹いて延べ板形にしたものを思い浮かべてしまったのです。そう考えると「青銅器のクニ出雲」のお墓の形として、「四隅突出形墳丘墓」という形がまさにはまり役ではありませんか?。そういえば、塩冶の「や」って、「冶金(やきん)」の「や」ですよね?。
 ついでにいえば「塩冶判官」(仮名手本忠臣蔵)で有名な土地でもあるようです。
 こうした着想が、皆様にどう受け取られるか皆目わかりませんが、素人としての強み?ここへ書いてしまします。<乞うご批判

古墳時代の西出雲は、切石の優美な石室古墳が?

 続いての見学は、西出雲を代表する3つの古墳です。「大念寺古墳」「上塩冶築山古墳」「地蔵山古墳」。見学順序は違いましたが、築造はこの順番らしく、それぞれ「跡を継いだ(西出雲の)首長の墓と考えられる」そうです。
 特徴的なのはきれいに化粧した切り石で石室が作られていたことです。集落の民家の中に突然現れた小さな高まり・・といったように古墳自体は小さいのですが、石室の質の高さはどれも目を見張るようなものでした。
 そして、石室入り口などに花生け筒など祭祀跡や、現実に生花が生けてあるのも特徴的でした!。2000年にもわたって地元の人々に祭られ続いてきた場所のようです。出雲の神話とともに、ここにも古代出雲文化が現代に受け継がれている証拠を見る思いでした。
 もう一つ参加者の目を引いたのは、石室内の石棺の巨大さとともに、石棺の横に穴が開いていることでした。現代の代々墓のようにあとから次の被葬者を葬れるようになっているのです。これも吉備にはない葬祭文化のひとつです。
 弥生時代初頭から古墳時代を経て奈良時代にかけて、日本の人口は50万人から250万人へと急増したといわれます。(もっとも1,200年かけての話ですけどね)。
 多くは朝鮮半島からの渡来人説が有力ですが、吉備と出雲は北九州とともにその有力な場所といわれます。その昔、彼らが瀬戸内海沿いにやってきて居付いた吉備。一方日本海を一跨ぎした人々が居付いた出雲の地。それぞれに渡来文化の違いが現れたのでしょう。あ、もちろんどこが「新羅系」とか「百済系」とか「高句麗系」とかいうつもりはないのですけれども。
 でも吉備の渡来人って、「扶余」だとか、秦氏とか、賀屋(かや)氏が多かったとか言われていますよね。ともあれ今回は、朝鮮半島南部からの渡来人の子孫?達である私達が、おそらく朝鮮半島東部からの渡来人の拠点である出雲の諸遺跡を見ての感想ではありました。(2004,5)

inserted by FC2 system