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いよいよ出雲大社と阿国の墓

 「古代吉備国を語る会」の恒例バス旅行も、今年は出雲特別例会Ⅲです。出雲西部、同東部を昨年までに終えて、今年はいよいよ出雲平野の北岸に沿って出雲大社までの道程となりました。縁結びの神様出雲大社がはたして良い縁をはこんできてくれますでしょうか?

国の重分・大寺の諸仏像

 5月と言うのに、本当にからりと晴れた暑い一日でした。最初は「大寺薬師」です。出雲平野の北に連なる小山脈。いわゆる国引きをして持ってきたと言う島根半島の西部の南山すそを巡る旅でした。かって「大寺(おおでら)」という文字通り大きな寺があったそうです。ところが江戸時代初期の大洪水による山崩れのため多くが破壊、埋没したとか。その後そこに祭られていた仏像たちを掘り出して、ふもとのお寺に収めたそうです。
 中心はなんと言っても「薬師如来」。そのために「大寺薬師」とも言われるそうで、クスノキ一木堀の大きな薬師如来でした。藤原時代、10世紀のものだそうです。よく拝んだので、少しは老眼が回復するかな??私に出来るのは神頼みだけなんです。
 左右におられる日光、月光菩薩、そして観音菩薩。観音菩薩のお顔がちょっと怖かったのが、観音ファンの私には残念でしたけど。そして持国天など四天王の像。仏教では「天」がつく仏さんは、もともとヒンズー教の神に由来するものだそうです。4人とも武人で怖いお姿でした。
 後ろのケースに入った「十二神将像」は、小さいのに良い細工がしてあり思わず見とれてしまいました。紛失して後世に補ったものが1体ありましたが、十二神将とは薬師如来が引き連れる鬼神の大将だそうです。
手前が観音菩薩十二神将像
 ここを見学していて、ご近所のひるま薬師を思い浮かべました。

 大寺裏に、2つの前方後円墳が

 次は大寺古墳。大寺の仏像を納めたお寺の裏山でした。1号墳は全長50mと大きく、古墳時代前期後半と出雲では最も古い前方後円墳だそうです。
 隣の2号墳は小さな横穴式石室が露出しており、古墳時代後期とすると、1号墳との間には年代的なギャップがありそうです。どちらも出雲の勢力が弱まった時代のもので、築いた勢力などは想定できなさそうでした。

道路工事で様々な遺跡が

 出雲地方は今、山陰自動車道や国道バイパスの工事の真っ最中のようで、あちこちで山が削られ田が埋められている様子が見られました。同時にそれは、かっての岡山がそうであったように、思わぬ?遺跡が出現することでもあります。
 今回は出土したばかりの「青木遺跡」へ案内されました。弥生の四隅突出型墳丘墓から、奈良平安の建物跡や井戸の跡など、長期にわたる遺跡の出土でした。
 なかで、奈良から平安時代に移る時期の掘っ立て柱の建物は古代の神社ではないかとみられ、「出雲大社の祖形では」と説明されていました。そうですね。あの巨大といわれる出雲大社は平安末期から鎌倉時代のようで、それまで出雲地方の神社の形態がどうなっていたのかはおそらくよくわからないのでしょうね。

出雲阿国のお墓

 次は出雲阿国のお墓です。出雲大社の西側、海までの間に出雲の阿国をしのぶ遺跡が並んでいます。今回はそのお墓だけでした。先日前進座のお芝居で「出雲阿国」をみた私には、感慨もひとしおでした。でも、写真で見た高い石柱は実は説明石で、お墓はその前の低いが大きな石だとは、現場に来てみるまでわかりませんでした。やはり何事も現場を踏まないとわからないものですねー。

いよいよ出雲大社です。

 あ、いや遺跡めぐりのグループとしては、「出雲大社境内遺跡」を目指したのです。先年発掘された、1mの丸太を3本束ねた巨大柱が目当てでした。しかし現場は埋め戻されて、模型と丸い円があるのみ。ふ~ん、といいながら、結局普通の出雲大社参拝となってしまいました。それでもせっかく来たのですから、100円玉のお賽銭を奮発し(それは奮発と言わない!)人生に良いご縁が授かりますように・・・。最後まで神頼みを貫いた?旅行でした。
 でも帰途に予定になかった「出雲ワイナリー」へ立ち寄っての試飲があり、主催者の粋な計らいに感謝しつつ、早くも神頼みの霊験が現れたかと悦にも入ったのでした。(2005,5)

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