弥生の洪水跡から、土器続々
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弥生大集落のすぐ南
現地は、岡山倉敷間のちょうど中間で、旧国道2号線と、新幹線の間にあります。すぐ北の新幹線沿いには、東西500メートル、南北1、5キロにわたって、弥生後期の大集落があったことがわかっており、その集落の北の丘陵地には弥生時代の墳墓としては全国最大の楯築(たてつき)遺跡(最後に写真)や、王墓山古墳群があります。
今回土器などが出土したのは、この集落跡(上東遺跡)の南部を北東から南西に流れていた旧河道(幅50メートル以上)の中で、ずっと南の丘陵にある岡山流通センターから北へのびる県道の工事にともない、岡山県古代吉備文化財センターが発掘調査していたものです。上東集落が洪水に襲われ、一気に流されたとみられる土器や生活用品が、ほぼ完全な形のままで、現在までに約600点みつかっています。
「器種は、壷、瓶、高杯、杯、鉢、碗などの生活用具のほか、製塩土器や用途は不明だが手あぶり鉢に似た手あぶり形土器など多彩。いずれも保存状態がよく、土器が作られ、使われていた約1、800年前の姿をそっくりとどめている」「土器のほかにも、きぬたやえぶりといった農具や機織り具など木製品も出土している。」(山陽新聞)
1月21日、31日と2日にわたり新聞報道されましたので、私も現場にいってみました。なるほど、小さな川1つ隔てた東がRSKバラ園で、岡山市。こちら側は倉敷市といった微妙な位置です。幅10数メートルにわたって深く掘り下げてあり、20人余りの人々が忙しそうに働いておられました。土を運び出すコンベアもいくつか動いています。一番深いところは、5~6メートルもあるでしょうか。土はほとんど灰色で粘土質のところや、川砂のところがあるようでした。
よくみると、ところどころに土器らしきものが見えます。また、あれは材木なんでしょうか。土からけっこう太い柱のようなものが、10数本も露出していました。弥生の建築様式などで新発見があるとよいなーなどと思ったりしました。「川のなかなので、今取り上げる作業をしている。そのうち報告書をだしたり、どこかへ展示することになると思う」ということで、説明会などは行われないということでした。(残念)
絵画文土器
発掘現場の一番深い位置から、小さな茶碗のようなものがみつかりました。手の中にちょうどおさまる程度のもので、口径7、8センチ、高さ6、5センチ。灰色の素焼きのような土器です。ところがこれに絵が描かれていたのです。人間の顔のようなものが2つと、抽象化した鳥のようなもの、バナナの皮を1枚むいたようなものと、合計4つ?の絵が茶碗の外側に描かれていたのです。
人間の顔の1つは、「ウインクした入れ墨顔の呪術者」といわれ、もう1つは「歯をむき出し怒る悪霊」と表現されています(山陽新聞)。でもどちらもちょうどピカソの絵のようで、後者は人というよりは牛かなにかのようにみえます。
また、抽象化した鳥のようで、ちょうど「人」という文字のような形のものはなんと「簡略化された竜」とされ、もう1つのバナナ様のものは「手を振り上げたカマキリにも見える」とされています。(山陽新聞)。
でも私にはどちらもそう見るにはちょっと無理があるのでは・・とおもえました。残念ながら、報道関係者以外には写真を撮らせてもらえなかったので、新聞写真をもとにした私のスケッチをのせておきます。
大和につぐ古墳群をほこる「吉備」の地の、古墳時代に先立つ時代の資料が次々にみつかるとは、「吉備王国」の謎も徐々に解きあかされていくかもしれません・・・。
なお、この「上東遺跡」は、備中国分寺や造山、作山古墳のある、狭義の吉備の、すぐ東に位置します。ここで長い間繁栄した古代吉備が、古墳時代へと続いたのではないでしょうか。
その時代について、同じ山陽新聞の記事では、
1、上東遺跡は弥生後期を中心とした吉備の中核的大集落の1つ。
2、(大量にみつかった土器は)弥生時代後期後半(2世紀後半~3世紀前半)
3、弥生時代後期(1世紀~2世紀初め)の絵画文土器
と表現されていました。
(98,2)
PS2: 上東遺跡では、このあと2月中旬に、川の護岸のあとがみつかっています。船着き場ともみられ、この集落があちこちと船による交易をしていたのではないかとも予想されています。(98,2)