吉備路の北にそびえる山の
ーー鬼の城紀行、2002年春ーー

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 吉備と一言で言っても、今の岡山県と広島県東部を含む広い地域です。そのなかで何と言っても有名なのは「吉備路」。造山、作山などの巨大古墳や、備中国分寺五重塔などのある観光地です。休日には散策する観光客があふれます。
 その吉備路を散策しながらはるか北を望むと、ひときわ高い山がそびえています。吉備高原の南端にある鬼城山403mです。この山が古代朝鮮式山城だとして有名になったのは、1970年代だったでしょうか?。その後も調査が続き、現在も発掘が行われています。

温羅の居城か、唐・新羅に備えた防御陣地か?
 この古代山城、「鬼の城(きのじょう)」と呼ばれ、日本書紀など中央の文献に載っていないことから「いったい誰が?」と諸説紛々入り乱れ、説が説を呼ぶ状態と言っても過言ではない「不思議の山城」なのです。
 663年、百済(朝鮮半島南部にあった国)滅亡の危機に援軍を送った倭(日本=大和朝廷)。ところが白村江というところでの戦いで、唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。命からがら逃げ帰って、都まで明日香から大津へ移すしまつ。そのとき、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて、福岡県(大野城)、香川県(屋島城)、大阪府(高安城)などに急遽朝鮮式山城を築いたというのです。このとき「鬼の城」も同じ目的で築かれたという説。
 しかし他の山城が日本書紀などに載っているのにくらべて、なぜかこの吉備の「鬼の城」はこうした中央の文献に出てこないのです(同じ事は岡山 市東部の大廻小廻山遺跡でもいえるようですが)。
 一方地元では「朝鮮からきた温羅という人がここに山城を築いて住んだ。」という伝承が続いているのです。この伝承は「吉備津彦の温羅退治」として、やがては桃太郎伝説へとつながっていくわけですが、この一帯にはこの「温羅退治伝説」にまつわる旧跡があちこちにちりばめられ、最近では岡山市で『うらじゃ祭り』という巨大夏祭りまではじまるしまつ?。一体この鬼の城、何なんでしょうね???
 

はるか高いところにあるビニールシート
 吉備路の中央を南北に走る道路を一路北へ。春霞たなびく正面はるかにそびゆる急峻な山。その頂上あたりに青いものが見えます。発掘中で養生のためかけられたビニールのテントでしょう。そう、あれが鬼の城なのです。
 タッ、高い!!。あんな上に城を築いたんだ!。それも千数百年も前に!!。
 180号線を横断してそのまま北へ。岡山自動車道の下を通るあたりから道々に「鬼の城○km」という看板が目に付くようになります。
 キャンプなどの観光客がいっぱいの砂川公園を過ぎるあたりから道は狭まり、車一台が通るのがやっと。前方から車がきたら・・・。それよりも何なんでしょう!この急坂。でも時々徒歩で登っておられる方々をみますと、不平も言えません。
 吉備路から7~8キロも登ったでしょうか。道が広くなったと思ったら「鬼の城駐車場」へ着きました。さすが休日、20数台の車が止まっています。そして鬼の城はこの駐車場から歩いて約300mのところにあったのです。

西門から南門へ
  
西門西門から南を望む水門、右の方に水が噴出しているのが見える
 
 駐車場からの道は鬼城山頂上展望台(第一展望台)のすぐ横のところから入場するようになっています。で、すぐ横に「西門跡」があります。大きな木の柱と板壁で当時の一部が再現されています。
 こんな高い山の上にこんな巨大な門が建てられていたのです。す、すごい!!
 地図を見ますと、この位置からずっと城壁沿いに約2.8キロもの城壁が山をとりまき、それに沿って遊歩道が整備されているようです。
 反時計回りに南側から回ることにしました。
 道々吉備平野が一望され、何とも景色のいいところです。家族連れなどいろんな方が前後して散策されています。おっとここからは整備中で、青いテントがかけられ、臨時の遊歩道がつけられています。けっこうアップダウンがきつく、時々休憩をはさみながらの散策になりました。
 何か水の音が聞こえます。見ると石垣の間から水が噴出しているではありませんか。『第2水門』の立て札。山上をぐるっと鉢巻き状に城壁がとりまいているため、内部の水を城外に逃がすための水門が数ヶ所に設置されているそうです。水路で城壁が崩れないように、場内の水路から石積みの道水口を作って、そこから城外へと水を逃がしているのです。そのため千数百年たった今でも機能が損なわれることなく存在しているようです。すごいことです。
 少し行くと南門跡がありました。「この門は二階建ての楼門であったと考えられます。」と説明されていました。
  
南門南門から南を望む東門
 

 東門から北門へ
 少し坂を下がったところに「東門跡」がありました。それにしてもこれまでの3つの門、その外側はどれも急峻な坂になっています。これらの門までどうやって登ってきたのでしょう。”城門”というからには”登山道(登城道)”があるはずなのですが?入城路近くの西門を除いてはとてもそんなものがあったとは思えないくらい外側は急峻な坂が続いているのです。う~~ん。現地を見て思わず考え込んでしまいました。 
 東門を過ぎたあたりからゆくてに出っ張った見事な石垣が見えます。鬼の城の最東端にある「第2展望台」なのですが、本当に切り立った崖の上に築かれています。まさに「砦」そのものです。近世の城郭なら櫓があったとも想像されるのですが。。。
でもここには「建物は無かったような」と説明されていました。これも不思議です。
 そしてここには下記のような説明版が立っていました。

  
第2展望台北門
 
 第2展望台を過ぎると、それまでの眺望は一変、吉備高原の山々が北側にせまり、その間を流れる血吸川(かって温羅の血を吸ったという川)の急谷を眼下にみながらの山行きとなります。
 おや、「温羅旧跡」という石碑があります。「昭和12年鬼の城保勝会」とあるではありませんか。戦前からここは地元では有名で、保存運動が続いてきたようですね。
 北門はどうやら発掘中でしたが内部に入って見ることができました。ここは珍しいことに城門の中央に排水路(暗渠)が設けられています。城門と水門を兼ねているのです。そしてここからは唯一外部への道が続いていて「岩屋」などへ行けるようになっています。やっと「城門」らしきものに行き当たったと言ったら間違いでしょうか?。
 全周2.8kmと書かれていますが、同時に「二時間半の行程」ともありました。私の場合約2時間かけて万歩計は9,000歩余り、どうやら5キロ程度はうろうろしたようです。山道です。皆様も「2.8キロなら一時間弱」などとはユメユメ思わず、ごゆっくり散策下さい。もう一つの吉備路散策コースとして、謎と体力作りに最適かもしれません。

  「鬼の岩屋」の謎?
 鬼の城からさらに北へ行きますと「岩屋」というところがあります。鬼の城の鬼が岩をさし上げて組み合わせ、住んだと言うところで、その名のとおり巨岩が組み合わされて洞窟になっています。平安山上仏教の盛んだったところだそうで、本当に人里離れた奥地の雰囲気で、「岩屋寺」というお寺がありました。不思議と言えば不思議なところです、千数百年前の人達もこの「不思議の館、鬼の岩屋」を修行の場に選んでいたのです。(2002,5)
鬼の岩屋
 

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