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 10年目の鬼ノ城 
服部駅からの大散歩・大登山

 3年ぶりに「古代吉備を語る会」に参加しました。
 その前も10年近く空いているような?。50名近い参加があったようですが、みなさん入れ替わったようで、知りびとはほとんどおられません。
 わずかに美女が一人。で、我が顔も覚えていただいたようで、感激でした。
 JR吉備線(今は「桃太郎線」なんて言うようですが、私には浦島太郎状態?)の服部駅に集合、そこから鬼ノ城まであるいて往復の予定。いつもJR駅を拠点に遺跡を歩くこの会の面目躍如たるものがありました。
 で、行程13キロ・・・・。えっ、大丈夫かな??私には無理そうでしたが、途中棄権も覚悟して、なんとか参加の一日でした。

 いつもの?「鬼の釜」が 

 やはり大変な道中でした。山登りも苦手な私は、途中坂になると後ろを向いて歩いて、それを洒落のようにごまかしたり四苦八苦。服部駅を出発した時には先頭集団にいたはずですが、次第に200mにも拡がった集団の最後尾となってしまっていたのです。歳のせい?とは言いたくありませんが???
 で、その時であったのがいつもの「鬼の釜」です。この直径1.8mもあろうかという大釜、今回の資料では。
 このあたりに「大規模な山上寺院(新山寺、岩屋寺)」が平安時代を通じて栄えていて、その奥にある「1722年に湯釜谷の『鬼の壇』から掘り出されて、現位置に置かれている『鉄窯(鬼の釜)』」
 とありました。ああ、いつも何だろうと眺めていた「鬼の釜」、そうだったんだと、私には新しい知見でした。

 おっと、この釜「底が抜けて」いますね。いずれにしても私には「石川五右衛門の??」なんてつまらない想像をしてしまうのでした。失礼・・・。

西門にも新しい事が?

 最初に見えてきたのは、おなじみの『西門』でした。「おやおやあの不思議な文様の盾が今でも?・・・」なんていうのが10年ぶりの私の最初の感想でした。ま、趣旨はわかりますが、どうなんでしょうね?
 西門の下側には新しく?版築(突き固めた土手)の跡がわかりやすく展示されていました。素晴らしい!!!

おっと、『神籠石』があることになっている

 歩いて行くと、低い石の並びと説明板が目につきました。『神籠石状列石』とあります。  神籠石とは、古代山城のなかで史書に入ってない山城で、、九州などにみられるものですが、低い石垣または列石で築城されているものです。それがこの鬼ノ城にあることは、私は不明にして初めて知りました。以前から「神籠石系山城」と呼ばれているようです。  今回の「古代吉備を語る会」では、
 『天智朝の白村江の闘いの後で築城された城の前に、大和政権が地方を治める軍事基地として築城した、後の朝鮮式山城よりも防備の薄い山城。  鬼ノ城も備前の「大廻り小廻り山城」とともにその一つで、白村江のあとで防備を強く築城しなおしたのではないか』
 といういわば2段築城説が披露されていました。この「神籠石状列石」がその残りではないかという事のようです。

場内の排水路・水門跡

 歩いて行くと続いて『水門跡』が現れます。これは以前から見た、おなじみのものです。場内の水を、周囲に巡らせた土塀を越えて場外に配水する所です。

そして2つの城門跡

 続いてあらわれるのが、『南門跡』と『東門跡』です。どちらも前回よりはくわしくなっているようですが、西門と違って建物はなく、柱穴などのみが再現されたものとなっています。

 

 10年ぶりの鬼ノ城、懐かしかったですが、見学者の多さや、新しいいくつかの知見は嬉しかったです。これからも時々でも来られるように、健康を保つことと、興味を失わないことを誓って帰路につきました。
 でも、山道を25,000歩。帰りは友人の車に同乗させていただいたのですが、疲れは2日間も残りました。(2022,3)



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