「趣味の古代吉備」のタイトルページへ戻る

鬼ノ城内大発掘・建物や土器続々!
ー考古学は、推理とカン?ー

 久しぶりの鬼ノ城(総社市)です。それにしても、今年の夏は暑かったです。そのなかで行われてきた、岡山県古代吉備文化財センターの鬼ノ城発掘。ご苦労さまです。ということで、今日は「謎の鬼ノ城 城内調査大公開」。なんと、一週間にわたって一般公開されたのです。物見高い私のこと、夏の疲れが出て、ふらふらしながらの??見学でした。

7年間かけて、謎の城、城内の大発掘

 文献に出てこない「朝鮮式山城」鬼ノ城!。これまで総社市教育委員会などの手で、全長2.8キロという城郭周辺は調査され、西門などが復元されていました。しかし広い城内の調査はほとんど手付かずだったのです。そこで昨年から岡山県古代吉備文化財センターが7年かけて城内の発掘調査を行っているのです。
 急坂を上って集合場所へと急ぐ私の横を、若い女性が軽々と追い越していかれます。見ると作業着姿。さすがに発掘メンバーで、毎日ここをかよっておられる人だなーと感心してしまいました。
 大公開一週間のうち土日は予約が必要とか。で、今日のような平日の午前中でも、およそ50人を越える人が集まっています。すごい関心度です。2班に分かれて発掘現場へ。

坂の途中に、「管理事務所」か?

 最初に案内されたのは、お城のほぼ中央部、今回建物の礎石がみつかった、「礎石建物2」というところです。道からすぐ左に降りたところでした。急坂が切り取られ、直系60cmくらいの礎石が約3m間隔で6ヶ並んでいます。その下側にも同じ並びがあります。2つほどは下へ転び出ている様子。
 「縦15m、横6mの長方形の建物で、中にも柱があり、床を張った建物だと思われます。おそらくこの鬼ノ城を管理する役人層が住んで仕事をしていた建物だと思われます。」という説明でした。
 「この石を見てください。うっすらと柱を立てた跡が判るでしょう?40~50cmもある柱です。」

 そ、そうなると、この鬼ノ城は建設されたあとも、いくらかの期間動いていたわけです。
 「仮の建物ではなく恒久的な建物です。見つかった土器から7世紀後半から8世紀前半のもので、使われた期間はおそらく4~50年にすぎないと思います。」
そうだと、やはり天智時代の白村江敗戦の後の時代か??

 ついつい質問してしまいました。「この礎石がここにあると、どうして判って、掘り出したのですか?」
 「その下にある石が露出していたのです。それを見て、おそらくこの方向に礎石があると見当をつけて・・・」
 なるほどなるほど、考古学も推理力とカンとが物を言うのですね??。ミステリーファンの私が考古学に興味を持つのも、こういう点にありそうです?。

仏教関係の建物跡も

 次に案内されたのは、従来から礎石が露出し「倉庫群」として私にもなじみがある建物跡です。今回の発掘では「礎石建物3」と分類されていました。そこでは平安時代の土器が見つかっていて「おそらく平安期の仏教関係施設と思われます。」だそうです。
 そうすると、鬼ノ城の横にある、平安期の山上仏教の聖地『新山』関係の施設なのでしょうね。
 「この下を掘ったところ、下にも柱穴が見つかりました。おそらく鬼ノ城期になんらかの建物があったあとに、100年後の平安期になって、また整地しなおして、仏教関連施設が建てられたようです。」という説明にも納得でした。鬼ノ城にも『謎』だけでなく、『歴史』もあったようなのです。
 今回の発掘で、これまでに8つの城内の建物跡が見つかっているそうです。

各種の土器が「ざくざくと」

 その横には、昨年の発掘で見つかった土器類が展示されていました。「思っていたより大量の土器が見つかりました。私たちの当初の予想を超えて、文字通りざくざくといった感じです。この黒いのは須恵器で、食器に使われていますし、赤いのは煮炊きに使われた土器です。ここで多くの人が、炊事し食事をしていたことになります。この壷は水がめでしょうね。」学芸員の人の説明にも熱が入ります。

   す、すずり・・・

 傍らには、見たことのある『すずり』がありました。もちろん復元されたもので、見つかった現物は写真の黒い部分で、ほんのかけらです。そこからよくすずりだと・・。さすがに考古学は推理とカン?なのでしょう。  「これで、ここに文字を書いていた官僚層のような人達がいたということがわかります。」
 当時の鬼ノ城のなかで、相当レベルの高い人達が事務仕事をしていたのでしょう。すごいことです。謎に包まれていた鬼ノ城の実態が徐々に浮かび上がってきているではありませんか。

 なお、隣には「瓦塔(がとう)」という焼き物で作ったミニチュアの塔のかけらが展示されていました。ただこれは使われた時代が長く、鬼ノ城時代のものか、後の平安仏教時代のものか判らないとのことでした。

 最後に「西門もそうですが、直径50cmもある柱はどっから持ってきたのでしょう。」という質問が飛んでいました。
 「皆さんが見るこの周りの赤松は、ほとんど明治以降の植林によるものです。1300年まえはおそらく植生が違い、この近くでもこんな大きな木が取れたのでしょうね。」という説明でした。う~ん。頭に浮かべようとしても想像できな~いーー。(2007,9)

-過去の鬼ノ城レポート-
吉備路の北にそびえる山のーー鬼の城紀行、2002年春ーー
鬼の城は今(2005,4) inserted by FC2 system