平家蟹さんの古墳見て歩記(岡山編2)

 これは、考古学界の山頭火こと平家蟹さんが、1997年の夏から秋にかけて、パソコン通信NIFTYの会議室にアップされたもののうち岡山の部分を、ご本人の承諾を得て転載させていただいたものです。尚、見出しや構成、顔グラフなど1部変更させていただいた部分もあります。

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岡山市内の前方後円墳の紹介

一本松古墳(34°41′30″N 133°55′57″E)

 岡山大学北側に半田山がありその東端、旭川に面する丘陵上にある全長65m の前方後円墳です。はぼ裸の状態で墳形は良好ですが、後円部頂に大きな穴があります。第二次大戦当時の高射砲陣地だそうですが、いくら高いところを撃つとはいえわずか数mしか違わないのに、わざわざ古墳の上に作らなくともいいのになー。大阪の黄金塚古墳もそうだそうですが、こういうのは全国にもあちこちあるんでしょうね。前方部そばに陪墳が2基あります。なおここは植物園の中で入るのに入園料が必要です(古墳を見るためだけに入ったのは私だけだろうか。

片山古墳(34°42′21″N 133°56′49″E)

 植物園北東、旭川に架かる中原橋を西に渡った正面丘陵上にある全長47m の前方後円墳です。山腹にアンテナがあってそこまでは山道がありますが後は藪こぎ。頂上に着くと形のいい前方後円墳があり墳丘も良好。苦労した甲斐がありました。

都月古墳群 (34°41′21″N 133°54′36″E)

七ッ◯古墳群(34°41′00″N 133°54′25″E)
(◯は外字で読めないと思います。「土編に丸」です)

   半田山の西側に3基の古墳からなるのが都月古墳群です。津島小学校から上っていくと鞍部がありその西の小さな畑の中にあるのが全長33m の前方後方墳1号墳でしょうか(ちょっと小さい感じですが)。更に西に行くと山道の途中で小さく盛り上がった部分がありこれが方墳の2号墳でしょうか。ともに竪穴式石室を主体とし、特殊器台から発達した円筒埴輪の破片が出土していて発生期の古墳ではないかといわれています。更に西に行くと神社がありここに全長30mの前方後円墳があるはずですがはっきりとは確認できませんでした。更に西に行くと鳥山の頂上に至り、尾根に沿って南に下っていくとやや平坦な場所辺りに七つぐろ古墳群がありますが山道沿いに幾つか起伏がある程度でここもはっきり確認できませんでした。しかし見晴らしはとてもいいですよ(ということは下からも良く見えると言うことで)。発生期の重要な古墳群ですが墳丘の確認は?だらけでした。

津倉古墳(34°40′12″N 133°54′28″E)

 七つぐろ古墳群から平地を隔てた南側に動物園や遊園地のある京山があり、その南側の丘陵上にある全長39m の前方後方墳で単独で存在しています。後方部頂に墓がある他は墳丘良好。周りが墓地で行くのも容易です。

神宮寺山古墳(34°40′50″N 133°56′00″E)

 半田山植物園南方の中井町、旭川右岸の平地にある全長150mの前方後円墳です。案内板あり。後円部に神社、前方部は墓地、周りは住宅に囲まれて周囲が少し削られているようですが街中でよく残ったなといった感じです。主体部は竪穴式石室でこれは神社建物の下になっていますがその脇に副室の天井石らしきものが見えています。ここから大量の鉄製品が出土しています。国史跡。

辛川小丸山古墳(34°40′45″N 133°52′07″E)

 京山付近からR180を西に行き、備前一宮駅北の中山中学校側の小さな独立丘陵上にある前方後円墳です。墳丘は前方後円墳らしく見えますが「前方後円墳集成」には載っていません。

坂古田堂山古墳(34°41′29″N 133°50′01″E)

 R180を更に西に行き、備中高松から最上稲荷に至る県道を約1.2km 程行くと坂古田集落背後の尾根上に全長150mの前方後円墳が見えてきます。全体が畑になっていて西側から見ると尾根を削って作った様子が観察でき,後円部に上がると掘割の跡もはっきり判ります。県史跡。
 更にここから1kmほど北東にあるのが県内最大の円墳小盛山古墳(34°41′48″N133°50′21″E)です。径100mと大きな古墳ですが全体が竹藪に覆われているせいかそれ程大きく感じません。堂山古墳から西1km に高松城跡があります。 ここも前方後円墳ではないかという説があります。すっかり平らになっていますが堀が何となく前方後円墳ぽい形をしています(先入観のせいか)。

中山茶臼山古墳(34°39′49″N 133°51′26″E)

 辛川小丸山古墳南側の丘陵が吉備中山でこの頂上にある全長120mの前方後円墳です。車で容易に行くことが出来ますが陵墓参考地(吉備津彦命)で見学不可。

尾上車山古墳(34°39′19″N 133°52′05″E)

 吉備中山の南東麓近くにある全長130mの前方後円墳です。北側の道路からその形がよく見えていますが墳丘に上がると後円部、前方部とも平坦になっています。別名ギリギリ山古墳。古墳時代には中山も麓まで海だったそうでそこからこの名が付いたのでしょうか。それとも墳丘南側が急斜面になっているからそのせいか。

浦間茶臼山古墳(34°42′24″N 134°04′11″E)

 岡山市中心部からR2を東に行き、吉井川に架かる備前大橋手前2km の浦間地区にある全長115mの前方後円墳で前方部がばち形に開く古式古墳です。後円部が林ですが、前方部は畑でその様子がよく観察できます。後円部頂は平坦ですが中央に大きな盗掘抗があります。こんな大きなものは見たことがないですね。これでは埋葬施設は完全に破壊されているでしょうね(`_´メ)。周りが住宅開発されていて前方部側にあった円墳も消滅しています。国史跡。


操山古墳群
 岡山市中心部の東方,旭川右岸に操山の丘陵があってここには前期の前方後円墳から後期の群集墳まで数多くの古墳が分布しています。群集墳の方は次の機会にして今回は前方後円墳から,こちらは主に丘陵西側のやや低くなった所に分布しています。ここも当時は丘の麓まで海だったんでしょうね。

湊茶臼山古墳(34°38′39″N 133°57′25″E)

 湊地区の丘の頂部を利用して作られた全長150mの前方後円墳です。周りを住宅地に囲まれて全体を見渡すことは出来ませんが,墳丘の上に上がると大きさが実感できます。ここも尾上車山古墳と同様後円部,前方部とも平坦になっています。
 国史跡。

網浜茶臼山古墳(34°38′32″N 133°56′40″E)

 丘陵東部,山陽学園短大北側の墓地の一角に位置する全長83m の前方後円墳です。墳丘全体も墓地となっていますが前方後円墳と判る程度には残っています。かっては一人の人間のためだけの墓が今は多数の人の墓となっていて,見事な再利用というべきでしょうか。

109号(34°38′24″N 133°56′39″E)

 前記の墓地の南はずれに小型の円墳のような墳丘が残っていてこれが推定全長75m の前方後円墳109号の成れの果てです。後円部の中心部が残っている程度で前方部は削平されています。小さな谷を隔てた東側から見ると僅かに前方部の高まりが残っているかなーといった感じです。

金蔵山古墳(34°39′38″N 133°58′15″E)

 操山丘陵中央の山頂に位置する全長165mの前方後円墳です。空中写真を見ると前方後円墳と言うことが判るので墳丘の残りは良好ですが現地に行ってもまず前方後円墳ということは判りませんね。ここも後円部頂は平坦になっていて中心から少し離れたところに偏平な石を小口積みにした竪穴石室が開口していて,ここからは4個の合子に入った鉄製品が多数出土しています。この石室は副室でもう二つの主室は埋められていて見ることは出来ません。しかし竪穴石室は滅多に見ることが出来ないので来た甲斐があったというものです。


操山古墳群 その2
 前項で少し紹介した操山から笠井山にかけての丘陵ほぼ全域に分布する約百基程の古墳群です。ほぼ中央の山頂に位置する金蔵山古墳を除けば後期の横穴式石室(見た限りでは殆ど片袖式石室でした)を主体とする円墳群です。幾つかの支群に分かれているようですがあまり集中することなく広範囲に分布しています。ハイキングコースが巡っているので適当に歩いていけば必ず幾つかの古墳に巡り会うことが出来ます。山道の所々には箱式石棺らしきものが埋まっている場所もあります。散策,運動を兼ねての古墳巡りにはぴったりの場所ですね。 全ては紹介できないので(全部見たわけでもないし)一部の古墳を紹介します。

萩の塚古墳(34°39′31″N 133°57′38″E)

 操山山頂の東方にあります。所々にある案内板に必ず乗っている割にはそれほど大きくはありませんが,石室の保存状況は良好で,玄室全体と羨道の一部が残っています。玄室は少しかがんで入ることが出来る程の高さでこの古墳群の中では大きい方でしょう。残念ながら内部が作業小屋と化していて道具や焚き火の跡があり石室も煤けています。墳丘はかろうじて石室を覆う程度に残っています。

旗振台古墳(34°39′14″N 133°57′41″E)

 操山山頂東南方,平野を見おろす位置にある操山では珍しい一辺25m の方墳です。主体部は2基の粘土槨と竪穴石室で中期の古墳ですから群集墳には属さないようです。名前の由来はこの上で旗を振って下に合図したことから来たそうです(そのまんまやんけ)。

八畳岩古墳(34°39′26″N 133°57′57″E)

 操山から金蔵山古墳に向かう尾根上にある古墳です。封土が消滅し大きな(八畳はないようだけど)石室が露出していて逆に石室石組みがよく観察でき,かなり大きな自然石をそれ程加工せず使っています。奥壁も3個の石を重ねて使っているのは近くに巨石がなかったせいでしょうか。眺めがいいのでこの上で昼食。このパターンがよくありますね,私の場合(^_^)。

二又古墳(34°39′31″N 133°58′11″E)

 八畳岩からさらに東に行くと送電線鉄塔脇に小さな案内板があり,それに従って南に下って行くと見つけることが出来ます。場所は分かりにくいですが一見する価値はあります。墳丘はなく石室がむき出しになっていますが名前の通り玄室が二又になっているのが最大の特徴です(全国唯一?)。玄室(全長5.1m)にはいるとすぐ左側にもう一つの支室(4.3m)が斜めに伸びていて,上から見るとチェックマークのような形をしています。現在支室の天井が落下してこちらには入ることは出来ませんが主玄室は完全に残っていて二又の部分もよく観察できます。付近には幾つかの横穴石室墳があって支群を形成しています。

沢田大塚古墳(34°39′47″N 133°58′16″E)

 金蔵山古墳東側から谷沿いに沢田の集落を目指していくとまづすぐに左側の畑の中にきれいな円錐形の古墳があり石室が開口しています。さらに下って行くと沢田の集落東側の尾根上にあるのが沢田大塚古墳です。古墳群最大の石室で巨石を使った本格的な石室です。ここも奥壁は3枚からなっています。

玄室石室奥から羨道をのぞむ沢田大塚近くの古墳(左に石室入り口)

丸山不動明王古墳(34°39′34″N 133°58′24″E)

 勝手命名,どっかで聞いた言葉だなー。 数多くの古墳がありながらそばに名前が書かれていたのは萩の塚と旗振台古墳だけだったもんで。金蔵山の東,紅岩山の南方にあります。不動明王の建物の背後に石室が開口していてうっかり見逃すとこでした。比較的大きな石室で特に玄門上の石はかなりの巨石です。

経ぐろ古墳(34°39′49″N 133°59′04″E)

 東方笠井山の東,麓近くの墓地北側の竹林の中にある円墳です。説明板も何もないので確信はないですがまづこれだと思います。笠井山周辺にも30基程の支群があります。


龍の口山古墳群

 操山の平野を挟んだ北方,龍の口山にも後期の横穴式石室を主体とした群集墳が分布しています。こちらも幾つかの支群に分かれていますが操山と違ってそれぞれ狭い範囲に集中しているのが特徴です。なお同じ山系に三角縁神獣鏡で有名な湯迫車塚古墳がありますが未だ巡り会えず(T_T)。

 まづ東南側の東ヶ丘団地から登っていくと二つの溜池を過ぎたすぐ上側の林の中に5期の横穴石室墳からなる支群があります(34°41′53″N 133°58′51″E)。
 はっきりとした石室が二つ見えています。さらに登っていくと山腹の池(非常に分かりにくい)の側にも支群があるはずですがはっきりとした墳丘は判りませんでした。さらに龍の口山を目指していくと山頂南側斜面に2~30基からなる支群があります。ここからは南側の平野が一望できて絶好の場所ですね。古墳は殆ど墳丘が流れ去り僅かな高まりや石室の残骸があってかろうじて古墳と判る程度で,石室構造が残っているのはごく僅かでそれも入るのが困難なほど小型のものです。その中で斜面の一番下に墳丘石室とも完全に残っているのがあります(34°42′06″N 133°58′06″E)。 これが盟主墳でしょうか,丁寧に作れば長持ちするという現代にも通じる教訓でした。山頂から北に下って行くと龍の口八幡神社がありこの建物そばの急斜面にまるで横穴古墳のような穴が開いています(34°42′15″N 133°58′28″E)。 それでも石室は石で組まれていますから墳丘が 埋まったものなのでしょうね(上が参道になっている)。無袖式の石室で中に賽銭の小銭が散らばっていました。さらに西に降りていくと麓に公園がありその一角に1号墳があります(34°42′17″N 133°57′58″E)。 径16m の円墳で斜面を削って作った様子もよく残っています。羨道は埋まっていますが玄室が開口していて長4.5m片袖式の玄室です。すぐそばに2号墳がありますがこれは僅かに高まりがある程度です。
 ここまで下ったところでレンズキャップをなくしたことに気づき探しながら又再登山(゚゚ )( 。。),山頂付近で見つけましたが疲れたーー。

山頂付近の古墳玄室1号墳丘1号墳玄室南側麓付近の古墳玄室

唐人塚古墳(34°41′36″N 133°57′46″E)

 龍の口山の西南の麓に唐人塚古墳があり,両袖式石室が開口していて中に家形石棺があります。蓋が無く身の部分だけですが播磨の竜山石製です。岡山平野の後期古墳としては最大級の石室ですぐ近くに白鳳期の賞田廃寺があり,この一族に関係した古墳だと考えられています。

牟佐大塚古墳(34°43′18″N 133°58′46″E)

 龍の口山の北方,小さな平野を挟んだ山の麓にある径30m,高8.5mの円墳です。大きさの割に背が高いのも終末期古墳の特徴でしょうか。南に両袖式石室が開口しています。石室全長18m,玄室長6m,幅2.8m,高3.2mと大きなものでこれほどの石室が玄室羨道とも完全に残っていると本当に長大に感じます。羨道入口に立つと長い羨道の奥にうっすらと家形石棺が見えています。残念ながら小口部分が破壊されていますが蓋の部分には退化した縄掛け突起が4個着いています。こちらの石棺は地元の浪形貝殻石灰岩製です。国史跡。


平家蟹さんの古墳見て歩記(岡山編3)へ続く

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