平家蟹さんの古墳見て歩記(岡山編7)

 これは、
考古学界の山頭火こと平家蟹さんが、2000年の春から夏にかけて、パソコン通信NIFTYの会議室にアップされたもののうち岡山の部分を、ご本人の承諾を得て転載させていただいたものです。尚、見出しや構成、顔グラフなど1部変更させていただいた部分もあります。

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笠岡市倉敷市岡山市真備町 総社市西部 総社市清音村の古墳の紹介です。

笠岡市

長福寺裏山古墳群

  文字通り長福寺の裏山、細長い独立丘陵上にあり前方後円墳2,帆立貝 式1,円墳数基からなる古墳群です。2000年4月古墳公園化に向けて工事中で事前の発掘が行われたようです。誰もいなかったので話は聞けなかったけれど久しぶりに発掘現場に偶然遭遇した (^_^) 。市史跡。

東塚古墳(34°35′01″N 133°32′09″E)

全長47m、高2mの前方後円墳です。文字通り一番東北側にある。
主軸に沿って南半分がきれいに削平され後円部も一部削られていてかろうじて前方後円墳と分かる程度。前方部に竪穴石室があったそうだ。

仙人塚古墳

全長43m、高6.5mの帆立貝式古墳です。東塚前方部側で墳丘は良好に残っている。後円部の中心部かなり深い所に主軸に沿って竪穴石室があるがここは以前から開口していた。公園化されれば多分埋め戻されるでしょうね。北側には周溝外堤が明瞭に残っている。外堤の一部が広くなっているのは儀式の場だろうか。後円部南側で盛り土をするようだけれどここは墳丘を復元するのかな。

一ツ塚古墳

径10~13m、高1mの円墳。仙人塚のすぐ南西にある。ここは全く手つかずの状態。

双ツ塚古墳

全長63m、後円部径35m、高5.5m、前方部幅28m高梁川以西の備中地域で最大の前方後円墳です。以前は藪に包まれていて全く形が分からなかったが下草がすっかり刈られてその全貌を表しています。一部盗掘を受けた痕がありますが墳丘は良好に残っています。北側には外堤も一部見られる。ここはトレンチも全く入っておらず現状のまま保存するんでしょうか。10年前の写真に箱式石棺が写っているが埋め戻されているようだ。以前の写真を見ても藪だらけでどこを写したのかさっぱり分からない。

七塚古墳(34°34′44″N 133°31′49″E)

一番西側、径10m、高1mの円墳が2基並んでいます。共に発掘され西側ので箱式石棺が見られます。板石を使っていて西側に副室が付属、以前にここから須恵器はそう(漢字が出ない (^^;) )、土師器碗、陶質土器壺が出土しています。東側のは掘り込まれているが石材は全くないようだ。名前が何で七ツ塚なんでしょうね。東から数えて7番目という意味かな。
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倉敷市

王墓の丘遺跡公園

(ここは岡山編1で紹介しましたが再度紹介します)
岡山市のと境界近くの独立丘陵上にある。すっかり住宅地化されているが楯築遺跡をはじめ多数の横穴石室墳、古代寺院跡が残っている。

楯築弥生墳丘墓(34°39′35″N 133°49′41″E)

  古墳に至る前段階の墓として何かとよく引き合いに出される遺跡。双方中円形をしているが南側は水道タンクで破壊、北側は住宅建設で崖となっていて消滅、現状では径40m程の円墳状をなしている。上に奇妙な形の石が立ち並んでいるがこれは当時からの物だろうか。側に御神体の弧帯石を納めた建物があり窓から覗くことが出来る(デジタルカメラで撮ったらここの写真だけノイズが入っていた (?.?)? ナンデー、祟りじゃー (^_^;) )。国史跡。

王墓山古墳(34°39′24″N 133°49′44″E)

    墳丘の形はすっかり分からなくなり石室内にあった家形石棺が側に置かれている。地元産の貝殻石灰岩(浪形石)を使用している、県内には同じ石材を使った石棺が5基あるが他のは全て刳抜式石棺で組合式はここだけ。棺身にほぞ穴を彫り込んだ高度な加工がなされ蓋には縄掛け突起が付いている。県史跡。

王墓丘古墳群(勝手命名)

  60基ほどの古墳があったが住宅地化される中で結構な数が公園として残っている。狭い場所なのに5つもの古墳群に分かれている。全体に状態は良くなく石室が露出、天井石もなくなっているのも多いが中にはきれいに石室が露出しているのもある。

鯉喰神社墳丘墓(34°39′52″N 133°49′22″E)

  楯築弥生墳丘墓のある丘の北側平野部にある。どちらが先か分からないが当時はお互いに見えていたんだろうな。上に神社があってかなり変形している。昨年99年に弧帯石の破片が発見されたがよく見つけたもんだ。

二子14号墳(34°38′50″N 133°48′35″E)

  一辺13m、2段築成の方墳です。珍しい7C中頃の終末期方墳で各辺は石垣状に石が積まれ南側に石室が開口しています。玄室はおおよそ長4m幅1.5m高1.5m位。左片袖式ですが左袖は小さな板状の石が突き出ている程度。発掘寺の写真には板石の閉塞石が写っているが現在これはないようだ。山陽自動車道の建設時に発見され発掘後破壊される予定だったが篤志家の方が無償で移転地を提供され移築復元された(^_^)/ヨカッタ ヨカッタ ! 。復元されてからだいぶ時間が経っているようで墳丘や石室入り口までススキがはえてきている。場所がかなりわかりにくい(前方後円墳を思わせるが名だが二子は地名)。岡山方面から新幹線下の道路を西に行き山の麓あたりから新幹線下から離れていき高速道路の下をくぐるとすぐ右側に登っていく階段がある。殆ど古墳に行くためだけの専用道路か (^^) 。古墳の脇に立派な石製の説明板が立っているがせめて階段下にも案内板が欲しかった。

梅雲寺古墳(34°33′04″N 133°44′19″E)

  丘陵麓近くにある横穴石室墳です。封土は流れ去り石室が露出しているが内部は埋没している。玄室長6.2m。似たような石室が近くにも幾つかあるそうだ。古墳の南側はすっかり住宅地と化しているが当時は海だったんでしょうね。市史跡。

八島天王山古墳(34°33′40″N 133°39′48″E)

高梁川河口近くの右岸でこの地域唯一の前方後円墳、全長50mだが前方部が殆ど道路で削平されている。後円部頂にも神社があって余り古墳という感じはしない。市史跡。
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岡山市

矢藤治山古墳(34°39′21″N 133°51′44″E)

全長35mの前方後円墳です。後円部から礫槨と木棺の痕跡を検出、鏡勾玉が砕かれ散乱した状態で出土、特殊器台の出土、前方部がばち形に開くなど最古級の前方後円墳の特徴を示しています。場所は吉備の中山の南側中腹、黒住教駐車場片隅に案内板が出ています。そこから整備された山道を下って行く、分かれ道には案内板が出ているから迷うことはない。墳丘は送電線鉄塔下にあって裸の状態だが側に説明板がなければ気が付きにくい(道がそこで行き止まりだから間違えることはないが)。
後円部の高まりは分かりますが南側の前方部は余りはっきりしない。
(注)平家蟹さんのHP、
古墳のお部屋http://member.nifty.ne.jp/kofun/に写真が掲載されています


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真備町
(注)真備町については、前回レポートも参照

天狗山古墳(34°37′22″N 133°43′20″E)

高梁川と小田川合流点近くの小高い丘陵上にある5C末の帆立貝式古墳で全長50~60m、高6m程。丘陵頂をめいっぱい利用して造られ周囲を外堤と周溝が巡っている様子が明瞭に観察できます。98年から3年計画で岡山大学が発掘し墳頂下5mの深い所で竪穴石室を検出内部は朱で塗られていました。
 竪穴石室に埋葬した後墳丘を築いた珍しい構造だそうだがこんな山頂ではその方が楽だろうな、周溝を掘ってその土を盛り上げればいいもんね。前方部側面に5m四方ほどの造出が付いている、土層の様子から古墳完成後しばらく時間が経ってから築かれているとのこと。こんな小さな前方部まで盗掘跡がある。西側外堤の外側に陪墳の天狗山西古墳がある。東側集落内の神社から登っていくことが出来る(当日ちょうど集落入り口に案内板を設置中だったので今後は迷うことはないだろう)。発掘が終わったばかりなので今は墳丘が見やすいし、上からの眺めも大変良い。

二万大塚古墳(34°37′05″N 133°42′42″E)

平野部に突き出た低い尾根の先端に構築された全長35mの前方後円墳です。6C中頃の築造だが前方部が大きく発達、ちょっと見には前後を間違えそう。後円部に横穴石室の石材が僅かに露出している。備中南部で横穴石室を持つ前方後円墳は他に総社市のこうもり塚古墳と江崎古墳だけ。あちらが吉備の表通りとすればこちらは裏通り、谷間の静かな場所にひっそりとたたずんでいる。町史跡。

竜王塚古墳(34°38′07″N 133°42′04″E)

一辺18m、5C後半の方墳です。墳丘は良好、竪穴石室があるが埋め戻されてみることは出来ない。

箭田大塚古墳(34°37′54″N 133°41′05″E)

径50m、高9mの大型円墳です。丘陵麓近くの平坦面に立地周りに周溝が巡っています。南側に両袖式石室が開口、全長19.1m玄室長8.4m幅3m高3.8mの規模で羨道までよく残っています。奥壁は巨大な1枚岩他も巨石を使い全国的に見ても屈指の巨石墳です。
 玄室に3基の箱式石棺がある、石室の規模の割に粗末と感じるのは現代人の感覚だろうか。玄門部に柵があるので玄室には入れないが中を見るのに特に不自由はない(でも入ってみたい、せめて隙間をもっと広くしてくれー(^ 人 ^)オ・ネ・ガ・イ )。 近くに見学者用の駐車場があり町内の観光案内 板が立っている。幾つかの古墳も載っているが石室のない古墳までまるで石室が開口しているように描かれている。知らなければつい行ってしまうぞ(最近は石室に目が無くて (^^) )。国史跡。

黒宮大塚古墳(34°37′17″N 133°40′29″E)

小田川沿いの広い谷平野に突き出た尾根上にある古墳です。全長60mの古式な前方後方墳と言われてきたが最近の調査で北側の前方部は自然地形ではないかともいわれている。現地を見た限りでは、う~ん何とも言えない (^_^;) 。墳頂の神社背後に竪穴石室があるが中心部からかなりずれている。覆い屋で保護されているが雑草が生えて見にくくなっている。町史跡。
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総社市西部
(注)総社市西部については、前回レポートも参照

金子石塔塚古墳(34°40′37″N 133°42′41″E)

 径30mの円墳で南側に石室が開口、右片袖式全長8.5mで玄室に刳抜式の家形石棺があります。県内に5基ある地元浪形石製(貝殻石灰岩)の石棺で蓋石の背が高く縄掛け突起も突き出た古いタイプのものです。
かっては石棺が半ば土砂に埋まり蓋石もはずされていましたが現在は中が清掃され蓋石も元に戻されています。

長砂古墳(34°40′25″N 133°41′55″E)

県内唯一の横口式石槨墳です。石室前面が崖で崩壊していますが石槨部分と石室の一部が残っています。石槨は長2.2m幅0.85m高0.57mの規模、上向きのコの字型の身に平らな石を乗せた構造で非常に精巧に造られています。小口部に蓋石取り付け用の窪みがあります。この蓋石は近くの供養塔の台石に転用されているそうです。石材は近くの石塔塚古墳の石棺と異なり播磨の竜山石です。

砂子山古墳群(34°40′15″N 133°39′46″E)

前方後円墳3,円墳1からなる古墳群です。前方後円墳は全長30-50mの規模ですが林の中にあって形はわかりにくい。皆竪穴石室を有するが現在見ることは出来るのは東側の1号墳だけ、前方部に小型の竪穴石室が口を開けている。

沖田奥6号墳

水島機械工業団地内の歴史公園に石室が移築復元されている。7C前半、無袖式で全長5.5m天井石は新しく復元している。側に製鉄遺跡も復元されている。偶然見つけたこともあって団地内の正確な場所は記録してない (^^;) 。
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総社市

三輪山古墳群

南側から伸びる丘陵の北端に位置する古墳群で古墳発生期の宮山墳墓群や前期の前方後円墳や群集墳、後期の横穴石室を主体とする古墳群とバラエティに富んでいます。南側麓の神社に説明板と分布図がある。

宮山墳墓群(34°39′29″N 133°44′59″E)

弥生墳丘墓もしくは発生期の前方後円墳で全長38m。後円部はよく目立つが前方部は低くわかりにくい。特殊器台で有名で県立博物館に展示しています。後円部に竪穴石室があり前方部周辺にも礫囲い土壙や箱式石棺状埋葬施設が多数あり位置が札で示されていますが実体は見ることは出来ません。県史跡。

天望台古墳・三笠山古墳(34°39′29″N 133°45′07″E)

宮山古墳から登っていくと頂辺りに2基の前方後円墳が並んでいます。西側が天望台古墳で全長40m、東側が三笠山古墳で全長70m、共に前期の前方後円墳です。下草が刈られ見学しやすい。天望台古墳は形が整っているが、三笠山古墳は傾斜した尾根線上に造られているせいか前方部が階段状になっていていまいち前方後円墳らしく感じられない。2基の間に群の中では比較的大きな円墳がある。

前期群集墳

分布図を見ると尾根線上に多くの前期群集墳が分布している(前期と後期の群集墳の違いについては #7041 参照、ここでは両者の違いがよく分かる)。植生や背が低いこともあってわかりにくい。95年に三笠山東側の水道タンク周辺で発掘が行われていたが穴凹だらけで何があるのかまるでわからん。この南側稜線には割とはっきりした墳丘が点々とあった。

後期群集墳

横穴石室を主体とする古墳群で12,3基程が麓近くにある。群集墳と書いたがかなり散在していて単独もしくは2-3基がグループとなって分布しているようだ。見た限りでは皆片袖式、神社近くに単独で存在しているのが割と大きい。

緑山古墳群

岡山編10で紹介したので省略しますが、あそこでで仮に1-5号としたのはそれぞれ8,7,6,4,1号と判明。8号墳の石室は全長15m以上もある。比較的大型なのは4,7,8号ですがこの他にも小円墳を含めて総数23基。。
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清音村

三輪山古墳群から南側の丘陵西側に多数の群集墳が分布している。三因千塚と呼ばれ県内でも有数の古墳密集地帯です。千塚はちょっとオーバーですが総数200基程、一部遊歩道が設置され見学に供されています。

峠古墳群(34°38′30″N 133°45′20″E)

麓近くの斜面に分布、一番下方にあった1-3号が道路の付け替えによって揃って平行移動され石室を移築墳丘を復元、現状維持の4号墳と共に歴史広場として公開されています。墳丘はまるで尖り帽のよう、元の形はどうだったのか分からないがどうもこの形は違和感を覚える。石室の中に入ると壁の石に数字が書き込まれていていかにも移築復元されたことを思い起こさせる。
 ここから斜面上方を見ると芝生に覆われた5,6号がある。これは発掘後石室は埋め戻された。更に斜面を登っていくと古墳が密集している。墳丘が流れ去り石室が崩壊しているのも多いが中に入れるのも幾つか残っている。次から次へと見つかってどんどん上に登っていく、最終的には70基ほど確認できたがはっきり言って疲れた。水平方向に造る余地があるのに高い所に造っていったのは集団間のテリトリーがあったんだろうか。なお現在は藪が茂ってきていて見にくくなっている。それにしてもこの道路、まだ一部しか整備されてないせいもあるが車は殆ど通らない。道路が必要だったのではなく道路工事が必要だったという現代日本によく見かける道路です。

天神古墳群(34°38′49″N 137°45′23″E)

峠古墳群の北側にあり20基ほどが峠古墳群よりも更に狭い範囲に密集した状態である。木道(設置されたのはだいぶ古そう)が古墳の間や上を巡っていて見学できる。ここも状態は余り良くなく石室がかなり露出している。ただ中には意外なほど良好な石室が幾つかあり中に入るとまるで切石を思わせる石室です。ただこの様な割れ方をする石らしく現在も近くに同様の石材が露出しています。集落の奥にあり側に駐車場もあるが道が狭く案内板もないので分かりづらい、峠古墳群の方から山麓沿 いの道を来た方が良さそうだ。

(注)平家蟹さんのHP、古墳のお部屋http://member.nifty.ne.jp/kofun/に写真が掲載されています


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