児島郡中核平野の遺跡群
ーー再び古代吉備を語る会にてーー

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 今日は”古代吉備を語る会”の第191回例会です。宇野線の彦崎駅から瀬戸大橋線の木見駅近辺まで、ほぼ5~6キロの間の遺跡を見て回るという企画でした。私にとっては1年ぶりにようやく参加できた会です。それだけ楽しみもまたおおきいものでした。

彦崎貝塚、そして児島北岸の貝塚群
  彦崎駅ということですぐ思い浮かぶのは「彦崎貝塚」です。以前帯江の歴史調査で羽島貝塚を調べたおり「彦崎ZI式」とか「彦崎KI式」とか”彦崎”の名のつく土器が多くあるのが印象的だったのです。
 その「彦崎貝塚」、彦崎駅の裏手、「栄松」という造り酒屋さんの庭先にありました。戦後まもなく酒樽干し場拡張工事でみつかり、東京大学の手で発掘調査が行われ、20数体の人骨や石器、骨器、土器、貝等が見つかったそうです。土器はその後彦崎○○式として標識土器として扱われるようになりました。
 「この児島の北岸には、ここを始め貝塚が数キロごとに点在しています。漁労を中心にしていた人たちが縄文時代中、児島の北岸を位置を変えながら生活していたのではないでしょうか。」
 「ここは今では遺跡として残されていませんが、この近くには縄文時代の住居跡などが埋まっているのではと推測されます。とにかく戦後の岡山県下の発掘の契機になった貝塚です・・・。」
 説明役は高橋さんという方でした。それでも周辺に散らばる貝を見つけては喜んでいた私たちではありました。

弥生式土器散在・高地性集落跡か?
 児島には平地が少ないことから、弥生時代の遺跡は少ないということでしたが、郷内盆地には集落遺跡や弥生墳丘墓もみられるということでした。
 二番目に訪れたのは彦崎駅から山すそをぐるっと西側へ回ったところ、県道岡山児島線からすぐ見上げられる山の中腹、高さ70mばかりの所に有る「福岡山遺跡」でした。階段や坂道をしばらくあがったところは平らな土地で、福岡神社というお宮の境内になっていました。ここに弥生時代の土器が散らばっていて、当時の高地性集落や墓地があったと推測されているそうです。
 「福岡神社という名のとおり、長船町の福岡との関係も有り、刀鍛冶が昔この下あたりにもたくさん住んでいたようです。」という説明もありました。

壮大な建築物、熊野神社と山伏の総本山
 その福岡神社の南側にあったのが「熊野神社」と山伏の総本山「五流尊瀧院」でした。”新熊野遺跡”としていくつかの史跡を案内していただきました。
 西暦700年代に熊野権現を勧請して造営されたという熊野神社は壮大な境内に多くの建物や史跡が並び、とくに6棟の本殿群が並び立つ社殿は近くの3重塔とともに「こんなところにこんな立派なものが・・。」とみんなを驚かせる荘厳な建物群でした。  「熊野神道の社殿配置が完璧に残る全国的にも貴重な例」と説明されていました。
 また熊野神社と混在状態の五流尊瀧院は山伏の本拠地だそうで、児島に山伏教団があることさえ知らなかった私にとっては新しい目を開かれる思いでした。
 ここには隠岐で没した後鳥羽上皇の供養塔という宝塔などものこされていました。

金毘羅街道が続き、頼仁親王墓も
 熊野神社から南へは両側に古い家並みが続く道でした。倉敷市林から木見へかけてで、金毘羅街道と言って岡山からこのあたりへ、そして由加山蓮台寺から下津井、琴平へと続く道のようです。江戸時代から戦前のころ、さぞかし賑わった街道筋なのでしょう。そしてこの道沿いにあったのが「諸興寺跡頼仁親王墓」でした。
 後鳥羽上皇の第4皇子で承久の乱(1221年)によって児島に配流されたと伝えられる頼仁親王は「児島五流山伏教団の盟主的存在になった」とも説明されていました。見るとここは「宮内庁」の管轄になっていました。

吉備の特殊器台が発見された向木見遺跡
 私たちが最後に訪れたのは「郷内盆地の最深部」にある「向木見遺跡」でした。少し山に上がったところにあり、半分くらいが削り取られていましたが、「背後のこの山一帯が遺跡ですね。今でもあの藪の中を探せば、弥生時代の土器片などが大量に落ちいています。」という説明がありました。ここは戦後すぐ(1948年)に見つかり、吉備の特殊器台や特殊壷などが発見されて、弥生末期の吉備地域の特徴的な墓制研究の先駆けとなった遺跡だということでした。
 古代吉備研究のエポックとなったという向木見遺跡を最後に、五月というのに30℃まで上がった炎天下の遺跡探訪は終わりましたが、児島北岸のこの地域が縄文から弥生、そして鎌倉時代と吉備文化の一翼を担い続けた先進地域の一つであったのだという印象を私に強く残してくれた一日でした。(2001,6)

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