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船穂・真備地域の歴史遺跡

 今日はご近所の多津美公民館郷土史講座・館外学習です。最近倉敷市に合併した船穂町、真備町と、近くの玉島地区、すなわち倉敷市西部を巡るバス旅行でした。
 ここではそのうち倉敷市船穂町、真備町の部分をこのレポートとして報告します。

備中岡田藩のこと

 備中地域(今の岡山県西部地域)は、戦国時代に織田と毛利の勢力の境界に位置したことで、江戸期に入っても大きな大名がいない、小さい領地が入り組んだ地域として続きました。
 そのなかで、江戸期を通じて1万石の小大名ながら国替えも無く続いたのが、今の倉敷市真備町岡田の伊藤家、すなわち岡田藩です。この日はその岡田藩の菩提寺「源福寺」を訪問しました。真備町川辺という山陽道の有名な宿場町の一角にあるお寺なのですが、高梁川の洪水の跡がなまなましく、追悼碑などが残っていました。そのためか城主のお墓や位牌をおさめたお堂は、一段と高いところにありました。江戸期から明治期まで、高梁川水系の洪水のひどさは相当のものがあったのでしょうね。
 写真右は明治26年の大洪水追悼碑。

吉備真備伝承の地

 真備町といいますと、「吉備真備」の地です。この日は、吉備真備が琴を弾いたという「琴弾き岩」、生地という「吉備大神宮」(これは隣の矢掛町で、矢掛・真備両町での「吉備真備生誕地争い?」のひとつです。でもここの「うどん」はそこそこ美味しかったですよ。)を手始めに、「吉備公廟」「吉備寺」などを巡りました。実は吉備真備は飛鳥で生まれ育っていて、吉備に来たことは無いらしいのですが、こうして各地に「生誕地」伝承があるのも有名人の常なのでしょうか?
 なお、吉備寺にはかっての大寺を思わせる塔や建物の礎石がありました。
琴弾き岩吉備大神宮(矢掛町)吉備真備公園(矢掛町)
吉備公廟(真備町)吉備公廟(真備町)吉備寺(真備町)

箭田大塚古墳は、吉備氏の先祖の墓か??

 「へびに注意」の立て札におびえながら、吉備路の「こうもり塚」、飛鳥の「石舞台」に匹敵する巨大石室墳という「箭田大塚古墳」を見学しました。なるほど、天井がはるかに高く、正面の1枚岩、天井石、両側の石、ともに大阪城の石垣を思い起こさせるような巨石で築かれています。6世紀後期から7世紀だそうですが、すごい土木工事技術がこの吉備西部にもあったものです。石棺は3つが並んでいました。
 「このあたり一帯の首長(下道氏?)の墓でしょう。そうしますと、のちに吉備寺を築いた勢力、そして吉備真備を生み出した吉備氏へと、勢力として連続しているように思います。もしかしたら吉備真備は、この古墳の主の子孫かもしれませんね。」という解説がありました。

2つの宝篋印塔

 真備町にはほぼ同じ形をした2つの宝篋印塔(ほうきょういんとう)がありました。「宝のはこの塔」という意味だそうです。堂応寺宝篋印塔は、山へ少し上がったところで、今は道のほとりに立っているのですが、昔は大きなお寺があったと見られているそうです。高さ3.26mと大きなもので、「正和3年(1314)」と書いてあり、そのために国指定建造物になっているそうです。1314年と言いますと鎌倉時代の末期で、京都朝廷が復権をめざして動き始めた頃ですね。世情が騒がしくなり始めたころの吉備で、このような塔を立てる人たちがいたようなのです。「宝篋印塔とは、仏舎利および宝篋印陀羅尼を納める塔であるが、のちに供養塔、墓碑として建てられた」という解説を見ても私にはよくわかりません?。

 もう一つは満願寺宝篋印塔で、さきの塔から見下ろせる田んぼの真ん中にありました。マイクロバスが田んぼの中の細い道を驚異的な運転で現地へ案内していただきました。長く洪水の跡に埋もれていたものが、江戸時代の享保9年(1724)に発見され、設置されたものだそうです。風化のためか建造年代の記述などがわからず、「県指定建造物」にとどまっているそうです。でも写真のごとく前の堂応寺宝篋印塔とそっくりで、「対として建造された」といってもよいものでした。

ハリストス正教会

 この日の最後は倉敷市船穂町柳井原のハリストス正教会でした。明治22年に柳井原出身の浅野コルニリイ久吉が洗礼を受け、導いた教会堂で、明治から大正にかけて宣教活動が展開されたそうです。「日本一小さい教会」としても報じられ、ペテルブルグの修道院に留学した有名な画家、山下りんの聖像(キリストや使徒の絵)がありました。
 私にとっては「帯江の歴史」秋田家の取材で先日お邪魔したり、FMくらしきの取材でも訪れたばかりのところで、山下りんの絵をゆっくりと見させていただきました。(2006,7)

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