東大寺再建の瓦は、全部吉備で焼かれていた
ーー古代吉備を語る会にてーー

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 遠く奈良時代(約1250年前)に創建された奈良の東大寺。私なども少年時代に修学旅行で大仏様の前を並んで歩いたことを覚えているのですが。 その東大寺は平安時代末期の源平合戦で焼失した後、鎌倉時代に再建されています。そしてその再建の時使われた瓦、その瓦のほとんどが吉備、この岡山の地で焼かれたというのです。

最初に出会ったのはお風呂跡
  今日は1月の最後の日曜日、前夜までの雨が上がり、からりと晴れたのですが、次第に冷たい風が強まる寒い日でした。「古代吉備を語る会」で山陽線万富駅に降り立ったみなさんはおよそ100名、それぞれかなりの厚着のようでした。瀬戸町教育委員会の岡本さんを案内役に万富駅近辺を約8キロにわたって歩き回りました。
鎌倉時代に東大寺の再建を任されたのは重源(ちょうげん)というお坊さん。そしてここ備前国はそのための費用を生み出す国(東大寺造営料国)として指定されたのだそうです。
一行がまず訪れたのは、「俊乗坊重源施湯跡推定地」というところでした。重源さんが東大寺再建の為に働いた庶民の為につくったお風呂の跡だそうです。うん!どっかで聞いたような‥‥‥
「そうだ、確か湯迫温泉もその重源さんが発見したのではなかったかな?そうなんだ。重源さんは東大寺再建の為にこの吉備の地にきていた。そしてあちこちにお風呂を作った!!」一人納得しながらいよいよ瓦の窯跡です。

30の窯で焼いた瓦が40万枚!
現場は万富駅の北方約400mにある細長い丘陵の斜面でした。実は昭和54年に岡山県が調査し、その時は13の窯跡が見つかったのだそうです。そして今回瀬戸町教育委員会が、窯がどこまで広がっているかを確かめるため、その横の部分を調査している最中だということでした。
なるほど、発掘現場です。
伝承によれば備前国司となった重源さんは、この地に東大寺八幡宮を勧請し、その前面の東、南、西に10基づつの窯を築いたといいます。そして東大寺大仏殿などの使われる瓦、およそ30~40万枚が作られたと推測されているそうです。すごい大規模な瓦製造工場ではありませんか。いったい何人くらいの人が働いていたのでしょうか?

礎石のある建物跡も発見
今回の発掘では1つの窯跡のほかに、建物の礎石が見つかっていました。「作業をする人たちが寝起きするだけなら、掘っ建て柱の建物で十分だと思うんですが、これは山の斜面を削って平らにし、礎石(土台石)を置いて柱を立てています。かなり重要な建物であったと思われます。」という説明がありました。そしてその礎石と礎石の間には割れた瓦が一列に敷き詰められているのです。「これ、壁のあった建物じゃあないかという人もいます。」
そして今回新たに土鍋やお椀など生活雑器を焼いた2基の窯も見つかっています。時代からするとこの地で瓦を焼いたあとに、生活雑器の生産拠点にもなっていたことがわかったということでした。
もしかしたらそういった技術がのちの備前焼へと引き継がれていったのかもしれませんね。

  

なんと、銅も生産していた重源さん
  次に一行が訪れたのは、窯跡から山陽線をはさんで反対側、南側の山すその「銅精練所跡」でした。何とこれもあの重源さんが、この山から出た銅鉱石を精錬して東大寺大仏再建に使った跡というのです。

もしかしたら、今でも東大寺には吉備の瓦が‥‥
と考えますよね。私たちアマチュアは当然。今の東大寺の瓦が全部岡山製だというのだと、本当に愉快ではありませんか。
で、聞いてみたのです。ワクワク
「東大寺はその後戦国時代にもう一度焼け、江戸時代に再建されています。それでも南大門など鎌倉時代の建物も残っていたのですが、戦後の昭和の大修理で瓦は全部入れ替わったと聞いています。」
ということでした。ざ、残念。(2002,2)

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