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矢掛町南部の遺跡達

 今日の「古代吉備王国を語る会」は、井原鉄道矢掛駅から三谷駅までの道中です。矢掛といえば古代は下道氏の拠点、江戸時代には本陣のある宿場町として栄えたところです。しかし今日はその矢掛の街は素通りして、一路南へ南へ。田んぼの中をひたすら歩きました。万歩計は2万4千。最後の洞松寺からは友人と一緒にタクシーのお世話になりましたが、ほとんどの方々は3万歩以上を歩かれたようです。ふー、疲れた!!

三成陣屋跡・義倉跡

 矢掛駅から少し東に行ったところにあったのが、江戸時代の三成陣屋跡でした。この矢掛町は江戸時代初期は庭瀬藩領(戸川氏)であったり、天領になって倉敷代官の出張所が置かれたり、複雑な経過をたどったようですが、1699年以後は庭瀬藩領(板倉氏)として明治まで続いたそうです。それらの支配の拠点として置かれたのがこの三成陣屋のようです。陣屋跡・義倉跡は現在は畑になっていましたが、ちょうどその上にある民家が「当時の様子をうかがうにたるたたずまい??」ということで、みんなの写真の被写体になっていました。これってどうなんでしょうね。でも本当にそうなんですから。私なども説明を聞くまで、てっきり「これが当時の陣屋」と思っていたものですから??。

毛利氏拠点の天主閣は今やテレビ塔に

 次に訪れたのは、戦国時代毛利氏の拠点として築かれた「茶臼山城址」です。矢掛盆地のほぼ中央にある小高い丘(約100m)の上でした。今日1番の難所??です。けっこう急坂でしたが町の公園整備のおかげでなんとか克服できました。
 戦国時代、毛利元就の6男毛利元清が猿掛城から移って拠点としたところだそうです。すぐ下を山陽道(当時)が通り、なんでも豊臣秀吉が朝鮮侵略(文禄の役)での往復途上に立ち寄った史実もあるとか。当時はかなり有力なお城だったのでしょうね。 『平山城』だそうです。でも現代のひ弱な?私達が今日歩いて上った経験からいうと『山城』ですよね。
 その天守閣は、今やTV塔に支配されていました。「矢掛東TV局」(NHK,RSK,OHK)。現代のご城主様はマスコミ様ということなのでしょうか?う~~ん。

茶臼山城址から矢掛町中心部平野部から望む茶臼山
吉備で珍しい『弥生環濠集落・清水谷遺跡』

 茶臼山から望んだ平野に展開していたのが、弥生時代の集落跡『清水谷遺跡』です。ほ場整備で発見されたそうですが、弥生時代前期(BC200)の環濠集落です。「吉備に珍しい(ここを含めて2例のみ)環濠集落だが、倭国大乱の時代の前の遺跡」ということらしいです。吉野ヶ里をはじめ弥生戦国時代(倭国大乱時代)の遺跡は、環濠を巡らせた城砦のような集落や山の上の集落(高地性集落)が多いのですが、ここ吉備の地にはそういうのがなく、「吉備の弥生は平和だった」論の根拠になっています。
 この清水谷遺跡は環濠集落のようですが、そういう意味で「弥生吉備平和論」を否定するものとはならず、また一辺60m程度の環濠では当時の戦乱にまきこまれればひとたまりもないことからも「外敵から守る環濠」というにはあまりにも弱いと思われました。

石室の奥に棚がある!・橋本荒神塚

 吉備の地にあるだけに矢掛町も古墳だらけの町のようです。そのひとつがこの橋本荒神塚。橋本古墳群15基の円墳のうちで最大のもの。でもこの荒神様(神社)の裏手にあった古墳石室には他に無い特色があったのです。何と石室の奥に『棚』があったのです。
 和歌山県や九州地方に多いというこの横穴式石室奥の棚。あら、和歌山や九州と言うとなんだかあの秦の徐福伝説を思い出させますけど、もしかしたら遺体のお棺のむこうに徐福を奉った棚が??。あ、これは私の勝手なたわごとですけどね。
 この棚には諸説あるようです。また岡山県下には現在5例が確認されているのみだそうです。

矢掛町最大古墳は「方墳」・小迫大塚

 大きな古墳は「○○大塚」というような名がついているものがけっこうあります。鴨方の竹林寺山天文台を西にながめながら達した、この小迫大塚古墳もそうでした。これは山の傾斜に造られた方墳で、一辺23~27mで三段になっており、横穴式石室がありました。古墳時代終末期で、仏教式と古墳式の葬送儀式が混在した時代のものということでした。時代背景などを聞きながらみるとなかなか面白いものですね。あ、近くにあの阿部清明の碑(ここで天体観測をしたという)もあるようです。

 
小迫大塚洞松寺風景
末寺1,200の名刹

 最後に行ったのは、戦国時代から江戸時代にかけて末寺1,200寺を従えた中本山として栄え、各地より多数の修行僧が集まり大道場となったという『洞松寺』でした。ここはもう遥照山に近い矢掛町最南部で、山間にたたずむ大寺という感じでした。先出の毛利元清の供養塔などもあり、菩提寺だったそうです。

 山陽道の要地矢掛は、縄文時代から近代まで、歴史を凝縮したような遺跡群を持つ面白いところでした。(2003,12)

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