集合は朝10時、JR津山線の岡山から一駅目、法界院駅でした。そこから歩き出して間もなく・・・。
「ちょっと番外ですが?」と案内の方が言いながら指さしたのは、立派な日本風のお屋敷でした。「江戸時代の名主さんのお屋敷です。」と。あとは何も説明なし。
何か変??と思った私は一人玄関前に。表札には「金万」さんと・・・。おっと、臆面もなく「お金持ち」を名乗ってしまった??ということなのでしょうか?
さすがに説明がし難かったことがすぐに理解できたような?
でもネットに載った「みの健康21推進の会」というところのチラシには「金万家は約600年前(室松時代)に現在地に移住してきた豪族です。大庄屋時代には、管掛用水を自費を投じて開発し、牧石村、原村、三野村、北方村などの村々ではお米の生産高が増大したと言われています。」とありました。
ふーん、どこの土地にも、その土地を富ませるように奉仕した著名な人がいたんだなーと、近くの倉敷市西田地区の木村庄屋の美談を重ねてみる私でした。
ところがこの地域、今回の説明書を見ますと、考古学的?には不思議な地域なようなのです。
「三野郡域における古墳時代後期に至っての遺跡形成の前代に比べての極端な落差は・・・」と書き出して約40行にも上って説明が続きます。何だか考古学者への説明のようで考古初心者の私などには理解がおぼつかないのですが、
要は「この地域は古墳時代後期から奈良時代にかけての遺跡がない!??」「でも当時の農業の中心地のはず。これは当時、中央政権の直轄地になっていたのではないか?」
ということのようなのです・・・。
うーん??中央の直轄地といえば、『児島』を思い出すのですが、さてさて、どうなんでしょう?
ある参加者のご感想「この地域は〇〇ばっかりじゃからな??」なんてことが正解かもしれませんね。
さて、法界院駅から最初に差し掛かったのは、著名な『神宮寺山古墳』でした。さきに「倉敷市に住み、岡山市中心部に42年も勤め上げた・・」とのたまった私でも、国道53号線をたまに通った時に「こちら神宮寺山古墳」という看板に誘われて、約一回?ほど覗いたこともあった有名古墳です。
「町中の巨大古墳」というふれこみでした。もちろん『今は』です。
「全長150m、高円部高さ約13mの3段築城(おっと築成)の大型前方後円墳で、4世紀から5世紀初頭の築造年代が想定・・」。
たてあな式の前期古墳で、周豪の痕跡は確認されてないが、「縦穴の天井石は露呈していて、盗掘され、鉄剣、鉄刀、鉄斧、鉄鎌、鉄鋤先などの多様な鉄製の武具や農機具などが出土している」だそうです。
おっと、写真右は古墳の前方部に現代の『お墓』が祀られている写真です。アップしてご覧ください。
「おう、あんなところに・・」という参加者の感想もありましたが、私は「先祖の墓地(古墳)に子孫が墓をたてるのもいいのでは??」という『派』?でしたね?
この神宮寺山古墳。頂上に「天計神社」という小さなお宮さんが祀られています。これ、実は『式内社』だそうです。
『式内社』とは「式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭(900年代、平安時代初期)には朝廷から官社として認識されていた神社」で、日本では過去に格式が高い神社とされていたお宮さんのようです。ちなみにこのなかの「備前国式内社」には「安仁神社」など23社が登録されていて、このお宮さんはそのなかに入っているそうです。
つまりこの天計神社、小さいけど、すごい神社なようなんです。
おっと、このお宮さん、ここにも5角柱の地神様が祀られていますね。私の専門分野?でもありますし、ついつい『パチリ』と。
次は「津島江道遺跡」といって、岡北中学構内に校舎を増築する際に見つかった遺跡でした。弥生時代(BC1000~AD250年ころ)初期に稲作が伝搬し全国に広がったころの「田んぼ」の跡がよく残されていたそうです。ここは、道中に遠くから「あそこあたりです」と見せられた程度でした。
次の「朝寝鼻貝塚」も、岡山理科大学正面あたりで、「この辺りにありました」と説明がありましたが、「縄文時代で、遺跡の内容は不詳」という資料。
また次に「お塚様(塚の本)古墳群」というところにも立ち寄りましたが(右写真)、「小型の前方後円墳と4つの小円墳がありましたが、戦後の宅地開発で消滅」とか。
で、立ち寄ったのが「一本松古墳群」でした。これは著名な半田山植物園内にあったので、残されたのかもしれませんね?ご覧のように岡山市街地も一望でした。故人も1600年?もの間、この地の発展状況を見られて満足だったのかな?と思われる位置の古墳でした。
全長65mの中型前方後円墳でしたが、頂上部には戦時中の陸軍施設を守るための対空陣地造成で、竪穴式石室が露出されるなど、荒らされているようでした。
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