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古墳博物館『操山』 

 久しぶりに平家蟹さんとお会いしました。以前に住んでおられた仙台をひきはらい、今では郷里の下関におられる平家蟹さん、相変わらず古墳めぐりを続けておられるようです。

古代吉備MLのOFF会

 古代吉備メーリングリストの仲間たちが集いました。近くの喫茶店で平家蟹さんを交えての考古談義。今回は「邪馬台国は吉備だ」と主張されている方を含めてのOFF会でしたので、侃々諤々、議論は盛り上がってしまいました。で、平家蟹さん、3月の初旬に下関を出発されて、長野や諸国を巡って、ようやくこの倉敷に到着されたようなのです。軽4ワゴンも新調されていましたが、なぜかオートバイはなし。でも、道の駅での野宿の道具はしっかりと積み込んでおられました。私も含めメンバーからは、旅の注意点や面白い話をとの注文が相次ぎ、まごつかせてしまいました。ごめんなさい。でも、2時間半もの語らい、相変わらずたのしかったです。

で、操山に案内していただきました?

 平家蟹さん、昼からは岡山市の操山を行脚する予定だとか。これ幸いと同行を申し込んでしまいました。白状しますと、私の操山行脚は、およそ30数年ぶりになったりするのです。もちろんそのときには「古墳」の「こ」の字も気が付かなかった時なのですが。地元の人間が、下関からこられた人に、操山を案内していただく?まことに不思議な構図で、歩き回った一日でした。
 そしてこの操山、岡山市街地の東部にある小高い丘で、130~170mの山々が東西に連なる丘陵地です。散策コースとして有名なこの操山はまた、あちこちに古墳がころがるまさに「古墳博物館」とでもいうような場所だったのです。およそ120以上の古墳時代前期、後期の古墳があると言われています。右の写真のように、遊歩道の随所に石室が現れるのです。

沢田裏山古墳、八畳岩古墳から始まりました

 北から車で入って「操山公園里山センター」へ。10年余り前に開館したこの施設は、操山散策のセンターとして、多くの人たちに親しまれています。
 通り抜けて山道を少し上がると、もう尾根筋へ出ます。すぐに沢田裏山古墳、八畳岩古墳にお目にかかれます。遊歩道のすぐ横にこのような大きな古墳が無造作にころがっている?のが最初の驚きです。
 八畳岩古墳は、飛鳥の石舞台を思わせる巨大な石室が露出したもので、南への眺望も開け、「す、すごい」の一言しかない素晴らしいものです。(ああ、我ながら語彙の少なさには悲しいものがありますね)。上に上がってみましたが、けっこう怖かったです。当時はこれに土盛がされ、下から見上げると神々しい存在だったのでしょうね。円墳とされているようです。
沢田裏山古墳八畳岩古墳八畳岩古墳から南を望む

日本で唯一つ。二股に分かれた古墳

 次にお目にかかったのは、「古墳博物館」ならではの「双股古墳」でした。何と、石室の羨道が2つに分かれているのです。Y字形なのです。「あとから1つ付け加えた」「夫婦を別々に祀った」・・・諸説分かれているらしいのですが真相は謎のまま。今は片方がつぶれていて一方しか入れないのですが、この双股古墳、全国的にも唯一つという珍しいもの。「古墳博物館操山」ならではの古墳ですね。
 えっ、「古墳博物館」って???。もちろんこの私がこのレポートを書くに当たって、初めてつけたネーミングなのですけれども。何か疑問がありますか?。そういう名をつけたくなるくらいこの操山、古墳の宝庫なのです

そして「金蔵山古墳」です

 この操山で何と言っても有名なのはここ、「金蔵山古墳」です。墳長165m、後円部の高さ18m、前方部の高さ15.5mの前方後円墳だそうです。三段築成で、くびれ部には造出と考えられるものもあるようでした。4世紀終わり頃の築造と言われ、戦後に発掘が行われて、3つの竪穴式石槨からは様々な出土品が確認されています。鉄製の農具・工具・武具や鋳鉄製斧形品・筒形銅器・碧玉製釧形品・・・、記録には数限りない出土物があったとされています。
 この操山では少ない、前期の巨大前方後円墳、上に上がっても全体がつかめない巨大古墳でした。ここから見える北側の平野に居を構えた有力者(王)の墓だったのでしょうか。

思わぬところに・お不動さんの裏に石室が

 道の向こうに神社、いやお不動さんがありました。そしてそこを回り込んだところにも立派な石室があったのです。居合わせた地元の方「昔からお不動さんにおまいりした後、ここでお弁当を食べていましたが、よく考えるとここは昔のお墓だったんですね。」と。うーん。操山の古墳群って、昔から信仰、いや生活に密着して存在していたんですね。さすが「古墳博物館」???

石鉄山古墳と沢田大塚

 続いて現れたのは「石鉄山古墳(いしぐろやまこふん)」です。軽やかに歩く平家蟹さんのよこにそっと現れました。ちょっとした公園広場(古墳の森ふれあい広場)になっているようです。きれいだなーと思うまもなく、沢田大塚へと続きます。この「古墳博物館」の後期古墳の代表でしょうか。全長11.4mの大形横穴式石室を持つもの、すぐ下の沢田地区を見下ろすように存在していました。「すぐ近くに来ないと案内板がない。不親切ですよね」と平家蟹さん。下の3枚の写真がそうです。

そして、目的地の「操山50.51号墳」は竹林のなかでした

 「こっから私の本番です。」と平家蟹さん。えっ、じゃあ今までは私たちのために案内していただいていたのだ!。恐縮しきりの同行2人をしりめに、横の竹林に分け入る平家蟹さんでした。おっと、うっかりするとおいて行かれそうです。あわてて後を追う二人。竹の中をわけわけ、「なんだここか」とたどり着いたのは「操山51、52号墳」でした。平家蟹さんは「OBITOさん情報です」といわれます。おう、懐かしい名前。およそ10年前、ニフティーの考古学の部屋でおなじみだった関西の方です。私はずっとご無沙汰でしたが、平家蟹さんはお付き合いが続いていたようなのです。それにしても、地元岡山の珍しい古墳の情報が関西の方から発信され、山口の方が探索にこられ、岡山の我々があとを付いてやっとたどり着くなんて・・・。古墳めぐりは深いものがありますね。

「ここで一番のお気に入りの古墳です」

 さいごに平家蟹さんがこう言って紹介してくれたのは、柿木畑の中にある某古墳でした。なるほど、きれいな墳丘が眺望豊かに眺められます。はるか上にはあの金蔵山古墳があるようなのですが、なんともきれいなこの某古墳、しばし歩みをとどめてみんなで眺めてしまいました。(2006,4)

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