「趣味の古代吉備」のタイトルページへ戻る

弥生から古墳へ・総社宮山遺跡

 最近「古代吉備国を語る会」にずっとご無沙汰しています。何やかと予定がぶつかったためです。今回ももろ花見2つとぶつかってしまいました。そのためこの「趣味の古代吉備」HPがなかなか書けません。で、そはならじ・・・と出かけることにしました。お天気もよいし・・・。

吉備路の西の端に

 総社市に「宮山弥生墳丘墓」というのがあるのは知っていました。さらにそこで出土した「特殊器台」(お祭りのときお供え物を乗せる台)が吉備地方特有のもので、後の古墳時代の埴輪へ発展したのをあとづけている「宮山型」というものであることなど、おぼろげながらの知識はあったのです。
 でもまだ現地には行ったことがなかったのです。で、今日行ってみることにしました。
 地図で見ると、総社の市街地から南方、総社南高校のすぐ東のようです。あれっ、そうするといわゆる狭義の吉備路の西の端にあたるのですね。東から造山古墳、こうもり塚、作山古墳、そしてこの宮山遺跡。ほぼ東西にずらりと並んでいるようです。

三輪山の峰々にズラリ、「宮山墳墓群」

 遊歩道の駐車場に車を止めて歩きました。山を切り通した道を歩いていきますと、古い神社にいたります。
 「百射山神社」という神社で、元は海の中の島にあったものが移されて、江戸時代にここへきたものらしいです。式代社として著名なお宮のようです。それでこの上を「宮山遺跡」というのでしょう。
 解説板では、この三輪山の3つに分かれて伸びた峰々に、弥生期の小さい古墓がずらりと並び、中央部に大きな弥生墳丘墓があると書いてありました。

 神社の横から上に上がるとまもなくその弥生墳丘墓に出ます。円墳のようで、中央がへこんでいますので、ここに被葬者が埋まっていたのでしょう。そこから西へ向けて「12号棺」「7号棺」・・・とかいた立て札がずらりと並びます。ああ、これらが1800年前の村人たちのお墓なのだな、といろいろと創造がわきます。どうやらさっき通った切り通しの向こう側の山にも続いているようです。
 「器台」という看板もありました。これが大和で埴輪に発展する直前の「吉備特殊器台」のあった場所なのでしょう。
 この山一帯の弥生の墳墓群を「宮山墳墓群」と言い、当時の村の共同墓地で、大きな「宮山墳丘墓」は有力者のものでしょうか。
宮山墳丘墓発掘当時弥生墳墓群の一部

後継者か?東の2つの古墳

 そこから東へ峰伝いに行ったところに2つの前方後円墳があります。いずれも竪穴式の初期のもので、ほぼ隣り合っていました。天望台古墳、三笠山古墳の2つです。
 2つとも双子のように似ていて、登るのに手ごろな大きさ?です。中央が窪んでいます。竪穴石室の跡でしょう。東へ前方部が長く伸びていました。山の上の小さいが姿のいい前方後円墳です。弥生墳丘墓の主の後継者のお墓なのでしょうね。
宮山天望台古墳三笠山古墳

古いお寺の跡が西の山に

 総社南高校あたりから見ますと、この三輪山はお墓がずらりと並んでいるところのようです。入り口近くに駐車場があり、遊歩道が整備されています。切り通しの西側の山の入り口に「三輪山霊場88ヶ所」という小さい看板がありした。何々、これはちょっと見てこなくては・・・。宮山遺跡と反対側の小さい山にも登ってみました。
 頂上に大きな石に如来と武神2体を彫った大きな石が祭ってあります。横には五角柱の地神様、神宮寺の祠、また前方には塀で囲って麻利支天と金毘羅灯篭、少し横には大師堂(石が端お大師堂というらしいです)などが並んでいます。あきらかにお寺の跡で、周辺が現代のお墓になっています。

三輪山一帯にならぶ石仏たち

   そしてそこここに小さな石仏があって「第32番」とか書いてあるのです。来る道々にもこの石仏がありました。また、東の山にあるさきの三笠山古墳のすぐ下にも「第52番」などが、道々並んでいました。ここの石仏88ヶ所は、ほとんどが「お大師さん」と「観音さん」の2体が並んでおかれています。こういうのもあるのですね。「三輪山霊場88ヶ所」です。(2007,3)
inserted by FC2 system