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高松城水攻め時の毛利方陣地跡

 今日は久しぶりに「古代吉備国を語る会」に参加しました。といっても、今日のテーマは「中国の役の毛利方陣城遺跡群」というもの。古代ではなく戦国時代でしたが、なかなかに興味を引くものでした。
 中国の役はやはり、高松城水攻めや、信長死亡にともなう秀吉の大返しが有名で、当時の毛利方についてはほとんど日が当たっていないからです。最初のJR吉備線吉備津駅に集まったのは、いつものように100人は越えようという多くの人たちでした。あれっ、今日はなぜか若い人たちの姿が目に付きますね・・・。

鷹巣城跡、日差山陣所

 まず最初は「鷹巣城跡」を目指しました。おりよく旧山陽道を西へ、板倉の宿のいい町並みが続きます。「あーここは明治の初め、帯江戸川家臣の二人が切腹したところだな?」などと考えながら、最初はまだ元気でした・・。

 最初の鷹巣城は、日差山からしばらく北側に伸びた江田山(227m)にある小早川隆景の毛利本陣跡です。この本陣跡からは、当時の戦場が一望に見渡せるのですが、本陣にしたとしても、当時は手前の日差山寺の諸設備をも生活の場として使ったことが想像されるということでした。「そうそう、鷹巣城にはこなかったけれど、この日差山寺は以前に来たことがあるな。」懐かしいところでした。
 でも、山道の連続には疲れて、「あーお昼は何処かな?」などと・・。
 この鷹巣城、さすがに毛利本体の前線基地だけあって、手前に大きな堀切もあり、眼下に造山古墳をのぞむ、なかなかの構えでした。
盾山陣地跡

  山を下り、次に案内されたところは、「盾山陣地跡」。「あれっ、ここは楯築遺跡ではないですか?当時の毛利軍はここにも陣地を置いたんだ。」
 「毛利氏の国境七城の背後を固める要地の一ヶ所として、毛利本体軍の来島行部が三千の軍勢で・・・」と資料にはありました。全国一の弥生墳丘墓、楯築遺跡にも行背の歴史がいろいろとあるんですね。
日幡(畑)城跡

 盾山陣地跡から少し東へ、足守川の土手のかたわらにある小山、そこが日幡(畑)城跡でした。今は竹やぶが生い茂り、メンバーにはなかなかの難所です。「ここは地元の日幡氏が毛利方として寄った城で、本格的な城ではなく小さな土城です。」ということでした。でも、高松城水攻め(6月)より前の4月に、味方に秀吉側に寝返る人が出て、あっさりと落城したとか。当時の毛利軍には、在地の勢力が多く味方して、戦ったようです。
 かたわらには日幡氏の子孫の方が建てた「日幡城跡」という立派な石碑が立っていました。

田んぼの中、加茂城跡

 次は、高松城から2キロばかり南の、高松城と同じ平野の真ん中にある加茂城跡でした。田んぼの中の畦にみんなが並んで、本丸跡に立つ出宮さん(講師)の説明を聞きました。
 ここも在地勢力がその居館を城にしたもののようで、本丸のほか、二の丸、西の丸などと、本格的な城構えだったようです。資料では「中国兵乱記」に上山(城主)、生石、桂(毛利家臣)などが篭城していたとある、と書かれていました。
毛利前衛、天神山城跡

  加茂城から西へ1キロばかり行ったところの、出山の上にあるのが天神山城跡でした。天神宮が祀られています。ここは山陽自動車道の工事で大半が削られてしまっていましたが、当時の発掘調査でいろんなことがわかっているようです。天神山頂上の本丸を中心に尾根筋に300mにわたって曲輪(郭)を配置した、本格的な陣城としての城構えでした。

 みると、平野をはさんで向かいの山にあった「秀吉本陣跡」と直接対峙する構えで、最初の鷹巣城の真下、秀吉陣との中間に構えられた城だとわかります。、毛利本体の戦闘部隊主力を置いたようで、資料には「毛利本体軍の出陣にともない、この陣所には小田、細川、杉原」の各武将が滞陣した」とあります。  あ、備後の杉原軍はここにいたんだ。

 でも、今日は久しぶりだった事もありたいそう疲れました。万歩計は25、000歩。やはり10キロなんてものではなかったです。その上に山の上もきつかったし・・・・。(2012,2)

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