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戦国と縄文。灘崎町の2つの遺跡

 岡山県玉野市と灘崎町の境にある『常山』。私にとっても思い出の山です。少年の頃、受験勉強する屋根裏の窓から正面に、ちょっと富士山に似た山が見えまして、いつも疲れた目や心を和ませてもらっていました。児島富士とも言われます。
 今日は2月はじめなのになぜか陽気に包まれた日です。私も含めておよそ100人の皆さんが、宇野線常山駅からこの頂上を目指しておられます。そう、今日も「古代吉備王国を語る会」の例会なのです。約300mの山とはいえ独立峰。ぐるっと取り巻いた自動車道はあるのですが、今日は昔道。つずら折れの急斜面の道を登っていきます。400年余り前この上にあった戦国山城「常山城」の皆さんが上り下りした道とも伝えられているようです。で、でも健脚ぞろいとご自慢の皆様ですが、さすがに列も切れ切れに・・・。

戸川秀安(幽林)の記念碑が

 JR常山駅から上がってすぐのところにあるのが「幽(友)林堂」です。戦国時代岡山宇喜多家の家老として児島一帯を領した戸川秀安を祭ったお堂と供養塔なのです。そう、私にとっても一年半前に「帯江戸川家」を調査したときにおなじみになった名前です。今も地元玉野市宇藤木の方々の手でお祭されているようです。
 付近には元の郵政省官舎の跡がありまして、春には桜の名所として賑わっています。先年には私も花見で友人との楽しいひとときを過ごさせていただきました。

無線塔がドンと占拠

 ようやく頂上にたどりつきました。この山は周囲が急斜面にもかかわらず、頂上付近に大きな平地が広がっていて、山城を築くにはまさに絶好の条件を備えています。戦国時代に有力な山城となったはずです。そして現代、戦後にはアメリカ軍がまず占拠して、全国を結ぶ無線の中継所となりました。そうそう、当時我が家からも山を上り下りする米軍ジープの明かりが見えた記憶があります。
 たどりついた旧「栂尾丸」(旧戦国山城の出城)のほとんどは、今ではNTTの無線中継鉄塔とその無人局舎によってデンと占領されていました。今のご城主様は「NTT]なのです。おかげでここの素晴らしい景色の見物の為に、みんな爪先立ちの細い道をたどって・・というようなことになってしまいました。

もう一つの有名名所、『女軍の墓』

 前出の戸川幽林さんから少し前、ここは高梁の三村家の一族、上野隆徳の居城でした。三村と毛利の戦いで、この常山城はあえなく落城してしまうわけですが、このとき城主の妻鶴姫が侍女たちをひきいて出陣、獅子奮迅の活躍をしたと伝えられています。その「女軍の墓」が本丸にいたる道の途中に並んでいました。城主夫妻の墓を守るように配置された多くの娘さん達のお墓。「○妙○」などという戒名が痛々しくもあり、艶かしくもあり。さぞかし美女連だったにちがいない、とは私の勝手な追憶ではありました。
 本丸から2方向へ、前出の「栂尾丸」への道には「○○丸」と言う出城が6つ連なり、もう一方(西側)には矢竹丸、惣門丸などこちらも6つの出城がつらなります。「児島半島随一の山城」というだけあって、大きな城構えです。途中兵士の喉を潤おす井戸もありました。

そして再びの『彦崎貝塚』

 今日のもう一つの目玉は「彦崎貝塚」です。2年半ほど前、この会で訪れたところですが、今回は灘崎町教育委員会が発掘中で、人骨も掘り出されたという、今話題の遺跡です。今日の参加人数がかってなく多いのもこの遺跡見たさの方が多いせいかもしれません。ちょうど一週間前に現地説明会が開催されたそうで、今日はその時の資料をもとに説明していただきました。
 発掘3ヵ年計画の初年度にあたって、多くの成果が確認されたようです。長さ100m、幅40m、貝層の厚さ最大1mなど西日本最大級の貝塚であり、今回縄文晩期の文化層確認され、縄文時代前期後半から後期後半(5,500年前~3,500年前)とされていた使用時期がさらに広がったこと・・・。
 しかし、まだ当時の人達が住んでいた場所などはわからないままだそうです。また出土物に「川の石にカキが付着」したものがあり、これが何を意味するかなど、いくつか今後への新しい課題も出てきたそうです。(2004,2)

PS:今日の日程は「約8km」ということでしたが、万歩計はなんと23000歩!!。少々お疲れモードで帰路についたのでした。
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