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岡山に「奈良の津」が?

 秋になってようやく「古代吉備国を語る会」が再開されました。今日は「”奈良の津”(楢津)周辺の遺跡群」というテーマです。えっ、岡山(吉備)に”奈良の津”ですって??。まあ奈良の地にも吉備という所がありますから、そうこだわらないで行きましょう?(何を一人でこだわってんの??)

 まさに抜けるようなという表現がぴったりの秋空の1日でした。JR吉備線大安寺駅に集合したのはいつもよりかなり多めで100人は軽く超えていたでしょうか?今日は森の熊さんはお休みらしかったですが、かわりに大安寺駅前の名家で畳屋を営む吉備武彦君が初同行。ビデオを手にがんばっておられました。さすがお若い!。
 一方では私の職場の大先輩も。たしか○○歳のはず。でも私より足はお達者なようで・・。私もがんばります。

山の上から転がり出た『石仏』

 いにしえには奈良の大安寺領だったことからその名がついたここ大安寺、最初に出会ったそれはまだ街中のことでした。家々の間にある門の奥に一つの石仏が。近づくと高さ5mはありそうな巨大な石です。「松山長昌寺応永10年」などと。1400年ころのもののようですが、天保7年(1837)に裏山から落ちてきたということです。
 「今は確認できませんがこの上には昔、お寺さんがあったようです。奈良の津と言われたこの地が中世にも栄えていた証拠でしょうか。」という説明もありました。今も古い家並みが続くこの大安寺から楢津一帯。たしかに中世も栄えていたのに違いないでしょうね。

小さな古墳がいっぱい。矢坂山古墳群

 この会恒例の山登りです。日頃の運動不足を嘆くいとまもありません。周囲の先輩方に負けまいと足を動かしました。え~~、まだまだ上なんですか~。
 どうやら前のほうが立ち止まっておられます。「これがそうです。」みれば山道のすぐ横に「ぽっかりと口をあけた石室・・」とは似ても似付かぬ小さな石の並びです。人が寝てその廻りを囲っただけと言えそうな「古墳」でした。昔はこれでも上に天井石があって、盛り土もあったのでしょうか?
 もう一つ薮の中の「古墳」も見ることができました。こうした小さな古墳がこの矢坂山一帯に50近く確認されているとのこと。「7世紀代のいわゆる群集墳で、畿内中央との身分関係のもとに築かれたと考えられる」だそうでした。こうした時代を経て後世に大安寺領の荘園がこの下に開かれたのでしょう。  

弥生の遺構が残る「夫婦岩周辺」

 少し進んだところに扇状の谷がありました。段ボールなどを尻にして滑ったら快適だろうな・・というような地形です。「すべり山」だそうです。納得。
 そのむこうに現れたのが大きな岩。「岩座(いわくら)」だそうです。特徴的なのは2つに割れていてまるで夫婦にみえること。夫婦岩遺跡(みょうといわ)だそうです。
 「この付近には以前弥生時代の土器などが散乱していたのです。またこの尾根には弥生時代のお墓が続いていたようで、付近に当時の集落(おそらく高地性集落)が存在していたと考えられます。」
 「弥生は岩に対する信仰があって、楯築もそうですが、この岩座も宗教的シンボルだった可能性があります。」
 「後世にはこの岩の間が山伏の行場となっていました。矢坂の地名は『いやさか』からきている。(という説も)」  いろんな説明にいちいち納得しながらの行脚でした。
 この近くには『富山城跡』があるのですが、この日は時間の関係で予定が飛ばされました。「戦国時代の典型的な連郭式山城で、松田氏、宇喜多氏などが拠点としてきたところです。宇喜多時代は西の毛利に対抗する最前線だった。」とかいう説明のみで次ぎへと急ぎ足です。

この蓋みんなで空けてみませんか?

 「この公園の整備で無くなってしまった古墳です。戦前記録には50mとあるのですが、おそらく30mくらいかと・・・」ここに青陵古墳があった・・という公園で昼食になりました。お宮さん(神社)の横に石棺が残っていたのですが、蓋がコンクリートで固められています。私など「にぎやかす人」は「この蓋、みんなでよっこらしょと開けてみたらどうでしょう?」と口だけ。冷静な人は「こんなにモルタルで固めてあるのでは無理です・・」と。どうやら今日の参加者にもふたいろの人種??が?。石棺のしめ縄と参拝用の石のみが印象的でした。
 なぬ。5世紀ですと。さすが専門家は見ているところは見ているのですね。

神社の裏山の小さな古墳など

 この日は「あのむこうに見える山の切れたあたりに昔古墳がありまして(楢津古墳)。、これが1番大きいものです(寺谷古墳群)。これなんですよ(若宮八幡宮裏の小さな古墳)。私もこの前見逃して上に上がってしまい、未記録の方墳を見つけたりしましたけど。」といったぐあいに小さな古墳群が続きました。
 で、今日のテーマは「普通古墳時代といいましても、400年間ずっと築造が続いているのではなく、どの地域も断続があるんです。ところがこの地域はその間ずっと続いていたと確認できる。その前の弥生もあり、そのうえそのあとの奈良時代にも”奈良の津”として栄えた様子がある。」
 最後に力説されました。そういえば大安寺、楢津(ならつ)、首部(こうべ)といった歴史がありそうな古い密集した家並みを何度も通ったっけ・・。今日の道中を思い浮かべながらぼうっとしていたようです。

首塚は「奈良の津」に

 「山陽道からここまで直線道路が延びています。始まりあたりに津高の”郡が”があり、ここはその港(津)だったと想定されます。」などと説明を聞いているうちのことでした。
 「あの盛り土は何ですか?」突然質問が私に飛びました。「えっ、ここに書いてあるように、首塚ですよ。」
 ここは白山神社というお宮さんの境内です。横手に大きな盛土があり、横に由緒の看板があったのですが、どうやらこの女性には看板と盛土が結びつかなかった様子。それくらいきれいに整備された首塚でした。
 何々、妹尾兼康、え、温羅?、・・・なんと5人もの有名人の名前があって、首塚諸説が語られています。これは言い得かもしれません。私も一口のらせていただいて、100年後には”杉原某の首”なんて・・・。
 冗談はさておき、この日の私の万歩計、ここまでで、約18,000歩(約10km)を記録していたことをご報告して。 ジ、エンド(2004,11)

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