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岡山大学に縄文村と食料貯蔵穴
岡山大学構内大発掘2009

 えっ、縄文?、そういえば私って縄文ファンでしたっけ!!!。というほど久しぶりの縄文からの便りでした。縄文時代後期、約4000年前の食料貯蔵穴が見つかった!との岡山大学からの発表でした。これは行ってみないといけません。

26年間で大学構内32箇所を発掘・縄文村が

 岡山大学はそのおよそ1km四方の敷地の中で、建物などの工事をするたびに、発掘をおこなってきたそうです。1983年からですから、およそ26年間、32箇所に上ります。構内のあちこちを転々と発掘したものですから、今やほぼ全貌が浮かび上がってきているとか。
 そのなかで最たるものは、西日本で唯一とも言える、縄文村の全貌です。約4000年前、縄文時代後期に、今この岡山大学があるところに縄文の村があって、建物があり、人が生活し、食料の貯蔵穴や火を使って作業をした跡などがいくつも見つかっているそうです。
 これは西日本では珍しい発見で、岡山県下ではほぼここのみだということでした。

4m以上も掘り下げた、4000年前の地面が

 そこにありました。岡山大学の北東の隅、新しい環境理工学部の建物の少し南です。あっ、これは!というほど一角が深く掘り下げられています。人の背丈の2倍以上、4m以上でしょうか。これが縄文の地面だと言われるのです。
 そして、点々と大きな穴が。どれも直径1mくらいでしょうか?のぞいてみるとこれも1m近い深さです。あっ、底へどんぐりらしい木の実が少し残っている穴もあります。1つの穴には、底へ敷いた網かごの一部が残っていました。互い違いに、なんとも美しい網目です。4000年前の人たちも、現代の私も出来ない美しい編み物を作っておられたようなんです。
 以前に見つかった集落跡から少し離れ、小川のほとりの低地にその穴は幾つも築かれているのでした。当時はそこにどんぐりの木の実(アラカシやイチイガシ)を詰めて、葉っぱなどで覆い、上を粘土で覆って、空気や光から遮断して、主要な食料として貯蔵していたのだそうです。おそらく次の年の収穫まで、ここから順番に実を取り出して食べていたのでしょうね?。
 今回の発掘ではないですが、貯蔵穴の1つには、ひとかかえもある土器もあり、そのなかにどんぐりなどを入れてあったとか。これは全国的にも類の無い発見だそうでした。

近くで縄文集落も出土していた

 「この黒い土層に注目してください。これは木材の層です。おそらく流木などでしょう。当時の洪水で流れてきたものでしょうか?」という説明に、良く見ますと、地層の下のほうが黒くなっています。掘った瞬間は茶色なんだそうですが、まもなく酸化して黒くなるのだそうです。近くにはいくつか木材の端切れなども露出していました。
 「あの環境理工学部の建物のところが、前回発掘したところで、あそこでは竪穴式住居が見つかっています。おそらくここはあの集落の貯蔵穴で、谷沿いの低地に貯蔵穴を作ったのでしょう。」
 でも、時々は洪水に襲われていた・・・。なんだか4000年前とは思えませんね。すぐ最近のことのようです。
 さすがに広範囲を何箇所も発掘すると、いろいろと貴重なものがわかるようです。「あの(すぐ近くの)半田山には縄文前記の貝塚があります。このあたりは縄文期に何千年か人が継続的に住んだと想像できます。」
 なるほど、なるほど、ロマンも深まりますね。

弥生期から明治まで、およそ2千年、ずっと耕作が

 それにしても深い発掘穴です。「ここは旭川からの支流が流れていて、堆積度が積もったのでしょう。そして、弥生時代から明治時代まで、このあたりはずっと主に水田として耕作されてきたことが、発掘の土層の様子からわかります。」なるほど、粘土層というか、田んぼの土のようなものが、ほぼ2m余りにわたって積み重なっている様子が、説明を聞けばよくわかります。明治以降は旧陸軍が1m程度盛土をして、兵舎を建てたり、軍事基地として使用していたのですけれどもね。
 水田跡ばかりで、発掘しても発掘しても何も出てこなくて、担当者はがっかりしていたところへ、この縄文貯蔵穴発見でほっとしているんだと、正直な報告もありました??。
 わずかに、弥生時代には谷沿いに等高線に沿って畝を作り、時代が進むと、東西南北を意識して畝を作って田んぼにしていたなどのことがわかってきたそうでした。

見事な縄文土器も出土

 最後にこれまでの出土遺物を見せていただきました。北の集落後からは、やはりいくつかの土器が見つかっていて、その文様の見事さが、参加者の興味をさそっていました。直径30cmくらいの平皿には、あきらかに赤い顔料(または朱?)のようなもので着色したあとがあり、文様に沿って、赤と黒のツートンカラーに塗り分けられた、見事な食器の様子が推定できます。直接持ち上げさせてもらいましたが、なんだか想像よりもずっと軽く、「さすが焼き物」と声を上げてしまいました。福田K2型という形式の土器も含まれていました。

 う~ん、縄文時代の岡山にもたくさんの生活があったのですね。縄文初期の火山活動で、西日本の人口は激減したと言われて、遺跡は少ない理由にされていますが、これからまたあちこちで遺跡が見つかるかもしれませんね。  近くの羽島貝塚も、近くを掘ってみれば、集落跡が見つかるかもしれないな・・・などと考えながらの帰途でした。(2009,10)

PS:ここ(岡山大学)から少し南の津島遺跡などでは、縄文期の遺跡や遺物はみつかってないそうで、「あそこはここより少し南(海より)ですから、当時は湿地帯か干潟ではなかったのではないでしょうか?」という説明もありました。最後に半田山から眺めた当時のこの地域の想像図を載せて起きます。会場に飾ってあったもので、川に沿って点々とある黒い丸が貯蔵穴だそうです。

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