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邑久から長船へ(瀬戸内市)
~大伯(おく)氏の本貫地だそうです~

 「えっ、大伯氏って??読めな~~い!!」などと泣き言を言っているうちにみんなはさっさと歩き出しています。ここはJR赤穂線邑久(おく)駅。西大寺の西、元の邑久町、今の瀬戸内市です。久しぶりの「古代吉備国を語る会」参加で空気の読めないことおびただしい一日でした。
 おりから実施が心配された雨模様。2月は200人だったそうですが、この日は40人の小人数となり、おなじみの方はちらほら・・・。

邑久駅前の弥生遺跡

 歩き始めて最初に、まだ住宅地をぬけないうちに、弥生の再現建物がにょっきり!!
 門田貝塚だそうです。古代吉井川の自然堤防の上にあった集落跡。ここから出土した土器は、瀬戸内海中部地方の弥生前期後半(2,000年前?)の標識土器になっているとか。すごいです。この地域の古代には未知な私にとって、今日は本当に珍しいところから紹介されました。
 吉備地方中心部(かな?)の倉敷市東部や岡山市中心部の津島遺跡が有名ですが、ここ備前平野東部にも大規模な弥生集落が展開されていたようなのです。で、これがその後の豪族大伯氏へと??という趣旨らしいですね。今回の企画は?

弥生から古墳時代へ・小規模丘上の墳墓の跡

 吉井川東岸の南北に広がる2つの平野。邑久と長船です。赤穂線に沿った県道を一路北上しますと、その2つの平野を分ける山塊に突き当たります。その西端にある小さな山、我城山。その上に弥生時代から古墳時代中期へと長期のお墓の群れが続いている・・・そうです。
 今日はその東端、県道から赤穂線を越えて、山へ上がったところの弥生の方形墳をみんなで踏みしめてしまいました。山の中で「ここがそうです。」といきなり言われても、ちょっと気づかない小さな高まりですが、ちょうど40人が乗れる程度のものでした。あれっ。、これって近くの倉敷市黒埼の黒姫塚と似ている?などと妄想したのは、もちろん我だけですがね?

 吉備地方特有の特殊器台や特殊壷が出土し、吉備の葬送様式が認められると同時にやまと政権の影響も見られ、吉備地方東部のこの地の豪族が、早くから大和政権に属していた?ようだ・・・というような説明がありました。

いよいよ本格的な後期古墳(石室)の登場でした

 我城山の東に深い谷が刻まれています。古代にはどうやら山塊をぬけてきたの福岡平野への要路だった谷です。その奥にぽっかりと口をあけた「北池1号墳」。人家の裏山に巨大な横穴式石室が露出していました。人がゆっくりと入れる規模です。南部の小平野では最大規模で、この地区の後期古墳の盟主的存在とか。地図を見ると、この山の西側には数限りない後期古墳の群集が見られます。そして・・・
 後期古墳(6世紀末から7世紀初頭=西暦600年前後)とみられ、中央政権的な築造様式となっているそうでした。少し離れた道沿いの民家横にも石室が露出しています(写真右)。この地は岡山市の操山みたいにやたら石室がみられるところなんでしょうね。

写真中は奥壁。

大伯氏は、吉備氏とは違っていた??

 この会を主催する出宮氏はどうやらこうした特長から、この地に伝わる「大伯(おく)氏」という豪族は、吉備地方の上道、三野、下道、加夜、笠氏など、吉備津彦や御友別の子孫とされるいわゆる「吉備氏」とは違うのではないか?と問題提起をされます。それゆえに吉備地方中心部の豪族達よりもずっと早く、大和の中央政権の影響下にあり、遺跡からもそうした特長が様々に読み取れる・・としておられます。
 現に祖先伝承も、吉備氏一族が御友別の子弟が祖先となっているのに対し、大伯(おく)氏は「高天原(神代)の天津神々の一神である神祝命につながる」とされていることを上げておられました。「非吉備氏である大伯氏の本貫地」という今日のタイトルもそこから来ているようでした。

かわいい狛犬

 2つの平野を隔てる峠を越えたところにあった「木鍋八幡宮」というお宮さんでの昼食でした。けっこう大きなお宮さんです。この地の氏神様なのでしょうね。で、よけいですが、門前の狛犬、なんとも可愛らしい顔です。ついつい写真に・・・。「狛犬の 顔に石工の 心あり」でしょうかね。

長船中学横の古墳から神獣鏡が

 長船中学の横にはきれいに整備された古墳がありました。牛文茶臼山古墳。牛文はここの地名です。前方後円墳の前方部が小さい「帆立貝式」だそうです。西暦500年ごろのものだそうで、上がってみてびっくり!上から掘られてまるで火山の噴火口のような様子を見せていました。
 ここからは神獣鏡や帯金具、刀、鈴、馬具といった様々なものが出土したそうで、これも当時早くも中央政権の影響下にあったこの地の特長を色濃く示しているとか。う~ん。

 「吉備の裏切り者」
 「大和に属したらこんなものももらえるんだよ。いいだろう。」

なんて当時言ったかどうかわかりませんが、この地方の当時の位置がよくわかる気がしました。

大塚古墳

 長船平野の東端あたりに大塚という集落がありました。後期古墳(横穴式石室)が一説では40基も並んでいるという説明でした。
 そのうちの最大のもの、大塚古墳群の盟主である「大塚」です。やはりでかいです。石室全長8.3m、奥は右に広がっており「片袖」という形でした。


 というわけで雨がひどくなってきたため、あと4箇所を残して今日は終了。1時間あまりかけてJR長船駅へと歩きました。今日の万歩計、27,500歩。最近の多い日の2倍です。16キロ以上歩いた計算になります。ああ、明日明後日が思いやられますね。岡山駅前でお好み焼きをつまみに、疲れなおしのビールをいただきました。お休みなさいませ・・・zzz・・・(2010,3)

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