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もう一つの古代朝鮮式山城、大廻小廻山城跡を訪ねて

古代朝鮮式山城として総社市の鬼の城はあまりにも有名ですが、実は吉備にはもう一つ朝鮮式山城があるのです。岡山市と瀬戸町の境界にある大廻小廻山(おおめぐりこめぐりやま)がそうです。
 廻る土塁内の広さは鬼の城を上回るとされるこの古代山城。近くの浮田小学校体育館で「古代山城『大廻小廻山城跡』を語る集い」が開かれたのを期に訪ねてみました。

 

東吉備の古代山城内は、広大な果樹園になっていました。

 場所はJR山陽線上道(じょうとう)駅の北側、また山陽自動車道山陽インターの南側でちょうどその中間点にある小高い山がそうでした。
 山陽インターで下りてそのまま南下、瀬戸町に入ったところで右折して川を渡ります。少し行ったところで左折、車のやっと通る細い道を南へ、ゆくての谷あいに分け入ります。
 道なりに進みますと、やがて民家らしいものがぽつぽつと見え、一面のぶどう畑の中に入って来たのに気付きます。おや、民間の廃棄物処理場らしきものもあるようです。
 人に合いましたので聞いてみました。
 「ああ、それならここら辺一帯がそうだよ。あの右側のが小廻りで、左のが大廻り、今はもう上へは行けんだろうね。」
 何と私はちょうど大廻山と小廻山の中間地点に来ていたのです。ここいらあたり一帯がいわゆる城内なのです。
 「10年ちょっと前だったか、あのむこうの重機があるでしょう。あそこらあたりを盛んに発掘していたんだけどね。」
 大昔ならさだめし『大廻小廻城主』にあたるであろうその方は、写真を撮るのに良いポイントをはじめ、いろいろと説明してくださいました。
 地図をみますと、大廻山頂付近まで道が書いてあります。車を置いて登山。山頂までの最後の30mは大きな草や木で道が塞がれていましたが、棘にひっかかれながら思い切って強行突破しました。あれっ、民家のすぐ裏庭という感じで、立ち木の中に少し広い場所となっていました。
 立ち木越しに見まわしますと、すぐ北には山陽団地が見え、反対の南側には東平島や古都(こず)といった岡山市東部の中心地が見渡せます。
 地図では旭川と吉井川のちょうど中間地点です。古代上道(かみつみち)氏の本拠と言われる東吉備のほぼど真ん中に広大な土塁を持った古代朝鮮式山城が築かれていたのです。

果樹園の中の小廻山大廻山から小廻山を望む大廻山頂上付近の様子

大廻りから山陽団地を望む同、岡山市東平島を望む

 

神籠石(こうごいし)という列石の上に版築(はんちく)土塁が

 午後からはさっきの『大廻小廻城主』?さんも参加された、「古代山城『大廻小廻山城跡』を語る集い」(浮田小学校体育館)へ参加しました。
 岡山市、瀬戸町の両教育委員会主催で、柴田一氏(就実女子大学長)、坪井清足氏(文化功労者)がそれぞれ「吉備の古代史」「謎の古代山城ー吉備と筑紫ー」と題して、こもごも講演をされました。
 どちらも文献の少ない古代吉備について、鬼の城とこの大廻小廻山城をどう位置付けるのか、きわめて示唆に富んだお話しをされ、面白かったのですが、特に私は「古代山城研究50年」という坪井氏の次のような話に興味を誘われました。

 「古代山城には神籠石(こうごいし)系山城と、日本書紀に出てくる天智朝の朝鮮式山城がある。吉備の鬼の城、大廻小廻、九州の(大野城を除く)多くの朝鮮式山城は、神籠石という列石を廻らせ、その上に版築工法で土塁を築き、それが山を取り巻いている。」
 「この版築工法は中国の城郭都市の土塁の工法から来ていると思われ、朝鮮式山城でも百済(くだら)にしかないものと聞いている。」
 黒板に丁寧な図を書かれながらの説明に、いつかテレビで見た現代中国の土塁を作る工法の話しがダブって思い起こされてきました。

 

天智朝の山城より神籠式系は古い!!

 「倭国と百済が、白村江(はくすきのえ)で大敗したあと、天智天皇が唐と新羅連合軍の日本侵攻に備えて築いたと言う3つの朝鮮式山城、大野城(福岡県)、屋島城(香川県)、高安城(大阪府)にはこの神籠石という列石が見つかっていない。同じ朝鮮式山城で同じ時代に築かれたとすると、なぜこうも違うのかわからない。」
 「この朝鮮式山城については諸説が入り乱れているのだが、私はこの神籠石系山城は、在地の勢力が外的に備えて独自に築いたもので、天智朝の3つの山城の7世紀よりももっと古いものではないかと思っている。」
 「九州の多くの神籠石系山城は、北に向かって3列の防御陣列を敷いたような配置にもなっており、5世紀と伝えられる『磐井の反乱』の時の九州側の大和にたいする防御陣と見えないこともない。」
 「古墳時代の古墳は後期になると横穴式石室型になるのだが、横穴石室はこの神籠式山城の技術が転用されたものだと思う。」

 う、う~ん。サ、賛成。大賛成!!。思わず心の中でうなってしまいました。
 鬼の城は、天智天皇が唐新羅に備えて3つの山城を築いたとき、吉備が同じように築いたものという通説にずっと疑問を持ち続けてきた私にとって、まさに目を開かれた思いでした。
 そうなんですか。天智朝の山城とその他の北九州や吉備の山城とでは、同じ朝鮮式古代山城でも、作りから何からまるで違うんですね。
 す、すごい!!

 

朝鮮式古代山城は『逃げ込み城』だ

 ここで私に思い起こされるのは「日本古代史と朝鮮」(金達寿著)という本のことです。
 ここで金氏は次のように書いておられます。
 「この高地性弥生集落の後身というか、その発達した形というか、それが古代朝鮮式山城なのです。最初は敵に見えない高いところに住みましたが、農耕には平地がいいので、平地にだんだん集落を移していく。移してくるけれども、敵に対する備えというものがやはり必要であり、いったん緩急の場合に逃げ込む場所を彼らは確保したわけで、それが山城です。」
 「朝鮮では『城下』といわないで『城内』と呼んだように、朝鮮では要するに、いったん戦争になれば人民もみな城の中に避難したのです。ですから朝鮮では古代山城を一名『逃げ城』とも呼んでいます。人々が逃げ込む城、これが朝鮮式古代山城です。」(以上、講談社学術文庫702。251~253頁より引用)。

 どうも朝鮮式古代山城を説明するのには、武士たちが篭って戦った中世日本の戦国山城の概念を捨てねばならないようです。
 古代からこの吉備は渡来人の多かったところとされています。この日の柴田一氏の講演でもふれられていました。
 これらを総合すると、
 「朝鮮半島南部からこの吉備の地に渡来して居着いた私達の先祖達は、陽光あふれる吉備の地で生活するのにあたって、いざ火急のときに逃げ込む場所として、自らの生命と平和を守るために、この吉備の東西の地に鬼の城と大廻小廻城を築いた!。」
 何だか私の中では「諸説入り乱れ」という状況はなくなり、大変にすっきりした結論に達してしまいました。(2002,11)

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