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吉備の山城は誰が?
ー大廻小廻シンポジウムからー

 2年ぶりの大廻小廻シンポジウムでした。名づけて「国指定記念シンポジウム・大廻小廻山城跡の謎に迫る!ー吉備最大の古代山城ー」。5月中旬、岡山市の就実大学で開かれました。私としても何回かレポートしたところ、見逃せず聞きに行ってしまいました。
 今回のシンポジウムでは特に「韓国の古代山城」のレポートが目を引き、吉備の「鬼の城」「大廻小廻山城」との対比がこもごも語られ、興味深いものとなりました。

韓国の古代山城と日本

 この項目では、就実大教授賈鍾壽(カ チョンス)さんと、岡山理科大学の亀田修一さんの講演がありました。
 賈さんは、「朝鮮半島で城が数多くに築造されたのは、高句麗、百済、新羅が覇権を争った三国時代(BC1C~AD668年)である。」として、築城材料、築城目的、地形、築造方法などで分類されました。そして(平城の多い中国とは違い)「朝鮮半島には古代から近世に至るまで2000ヶ所を越す城が築造されているが、山城は城郭の90%以上を占め地形や築造材料をうまく利用している。」(特に百済地域に多いとしたうえで)「百済は城郭自体が統治組織の基本骨格であり、地方統治の時には「治城」を保護し、緊急の場合は山城に避難し、抗戦する体制であった。このような山城は高句麗、新羅でも同様で・・・」などと結論付けられました。日本の朝鮮式山城が百済の残存勢力によるものが多いのではないかという説を裏付ける貴重なレポートです。

 亀田さんのレポートでは、三国それぞれの山城について詳述されました。高句麗の山城が平壌、ソウルともにあること。内部にオンドル施設があること。百済の都を移しながらの代々にわたる各種山城の特徴。そしてついに半島統一に至る新羅の山城。日本に逃れてきたと言われる伽耶の山城。なかでも特に吉備地方にゆかりの深い伽耶のレポートが興味を引きました。
 亀田さんはそして、「日本の古代山城は、弥生時代の環濠や高地性集落とはつながらない(古墳時代に山城はなく断絶する)。」「日本の(朝鮮式山)城は、城周2~3kmのものが多く、地域拠点の城が基本」として、「韓国には城周100m~10km超のものがあり、数百m以下のものが最も多い」として日本との違いをも鮮明に浮かび上がらせられたのです。

大和政権の吉備支配の拠点が、2つの山城なのか???

 この日の圧巻は、最後に登場した(われらがホープ)出宮さんでした。出宮さんは、白村江敗北(663)の前段階で、吉備地方に白猪、児島両屯倉が置かれていたことをあげ、両屯倉を後背地として鬼の城、大廻小廻城、2つの城が大和政権の吉備支配のプレゼンス(軍隊・国家などがある地域へ駐留・進出して軍事的、経済的に影響力をもつ存在であること)として築かれたと主張されたのです。
 どうやら2つの城が「天智山城」より古そうだということと、天智山城築城の記録にないということの2つの疑問を解決できる、新しい説とおみうけしました。私など素人考古学者は、すぐに乗ってしまいますので、出宮さんよろしくお願いいたします。
 この日にはほかに「九州の古代山城」と題して、九州国立博物館赤司善彦さんの講演がありました。九州の古代山城は、もっぱら太宰府を守るために配置されているらしいことなど、多くの未知の知識が得られ、吉備をどう解釈するか?貴重な講演でした。吉備の山城が同時代とすると、やはり大宰府を管轄した大和政権とかかわりが否定できません。出宮説がますます信憑性を増してきたこの日のシンポジウムではありました。(2005,5)

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