旧都宇郡南部(庄地区)の遺跡めぐり
ーー古代吉備を語る会にてーー

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秋晴れの一日、「古代吉備を語る会」に参加しました。この日は吉備線吉備津駅から山陽線中庄駅まで、「都宇郡南部の遺跡めぐり」と題して、岡山市と倉敷市の境界付近、旧の庄村内を北から南へ縦断する約8キロ余りの行程でした。ほとんどの方が私より先輩!。でもその足達者なこと。私などともすれば遅れ気味で歩き回った一日でした。

白鳳時代の2つの寺院跡
この地域は旧高梁川の河口近くで縄文貝塚もいくつか見られるが、特に弥生時代から新しい陸地が形成され、弥生大集落といわれる上東遺跡や、全国一の規模をもつ楯築弥生墳丘墓に見られるように、吉備地方の一つの中心地として発展してきたところです。
その後も王墓山古墳群やいくつかの廃寺跡にみられるように吉備王国の中心地としての地位が続いた場所でもあります。
一行がまずさしかかったのは、足守川の東岸、惣爪にある惣爪塔跡です。お寺の跡ですが、多くは地下げされて田んぼになっていて、今は塔の礎石が一つ残っているのみでした。
「奈良時代前期、この礎石の上に建っていた塔のほか、金堂、講堂などの建物が並び、一大伽藍が営まれていた」「この寺は『津の臣』の氏寺であったともいわれている」などと説明板には書かれていました。
そうするとこの日の行程の後半に出てくる「波止場跡」にも見られるように、この地が古くから吉備の重要な港として機能していたという説を裏付けることにもなるのだなと、一人納得をして次へとむかいました。あ、そういえばここは「吉備津」だったのですね。
 

足守川を渡って次に着いたのが「日畑廃寺跡」です。「白鳳時代創建の備中国では有数の寺院跡」とありました。王墓山丘陵の東側の谷間に「100m四方に及ぶ広い寺域に伽藍を整えた勇姿」「昭和11年の発掘で礎石の配置が知られている」と、早くから有名な廃寺跡のようです。なるほど広い草地のなかに点々と礎石らしい石が配置され、あ、あそこに建物があったのか?などと想像されました。
以前は県指定史跡でしたが、今は倉敷市の史跡で名前も「赤井堂屋敷」と変わっていました。「背後には王墓山古墳をはじめ約90の古墳があり、その古墳を作った人たちの子孫たちが建立したものであろう」というこの日畑廃寺の近くには、さきの惣爪廃寺のほか一宮神力寺跡、大崎廃寺、柏寺廃寺と同じ頃建立された寺院の跡が集中し、当時はすごい繁栄した地域だったようです。。
 

あそこにも古墳、ここにも古墳。王墓山古墳群
日畑廃寺の横から背後の山に上がるというよりは、山の上に開発された大団地のなかへ‥‥。すると行く道行く道のほとりにいくつも石の並びが見られます。見ますと「赤井西古墳3号墳」などのたて看板が‥。あれもこれも古墳なのでした。多くが石室を露出していますが、さすがに「大小100基の後期横穴式石室墳からなる」という王墓山古墳群です。
その大古墳群を保存しながら、まるでその間を縫うように開発された「庄パークヒルズ」という現代の大団地。1400年前にこの山の下にあった大集落の人たちは、次々と築かれる山上の古墳(おっと当時は有力者のお墓)の立派さをながめていたのでしょうが、まさかその場所に自分の子孫たちが大集落を作るなどとは夢にも思わなかったでしょうね。
ついでにこの団地は1400年後にはどんな形(遺跡?)で子孫たちに残るのでしょう??。あちこちと歩きながらついついいろんな事を考えてしまいました。
 

この古墳群のなかで最大の「王墓山古墳」は、墳丘の形もわからないくらいに無残に壊され、石室の石は足守川の堤防につかわれたとか。わずかに石棺が脇に引き出されて置かれていました。
この石棺、井原市の浪形石灰岩製の組み合わせ家形石棺だそうで、近づいてみるとなるほど貝の化石が見受けられます。家形は寄せ棟のようで、蓋の内部もくり貫かれていました。
この古墳からはおびただしい立派な出土品が出て、東京国立博物館に保管されているそうです。そういうものはなぜ地元に残してもらえないのでしょうか?せめてレプリカでも展示してもらえないかと考えるのは私だけなのでしょうか?
王墓山古墳から南へ山を下っていきますと、大池山古墳群、真宮古墳群、東谷古墳群と王墓山古墳群のうちの諸群がつぎつぎと現れます。まさに、あ、ここのも、あ、あそこにも‥‥という状態で山上に露出しています。特に真宮古墳は石室がほぼ完全に残って露出していて、よく観察できました。山の最南の斜面にあり、当時は下からよく見えただろうと想像されました。

 

水田のなかに埋もれた「弥生大集落」と波止場跡
楯築遺跡をはじめこの地方のいくつかの遺跡はよく知られていたのですが、何といってもここを有名にしたのは、山陽新幹線工事の際に発見された弥生時代の大集落あと、上東遺跡でしょう。「弥生中期から後期、古墳時代初頭にわたる遺跡」「住居跡、井戸、土こう、製塩炉、溝などが」広範囲にわたって出てきたのです。 今回の遺跡めぐりではその後(約10東側に隣接する岩倉遺跡へとまず案内されましたが、今は広大な水田が広がった場所、「当地域における平野部開発の出発点となったであろう遺跡」と説明されました。
これで、王墓山古墳のある山すそから、南へずっと住居が続いていた(あるいは移っていった)ことがわかったもののようです。
そこで発見されたのが、RSKバラ園入り口の「波止場跡」です。県道工事の事前調査でつい先年みつかったもので、その前に大量の土器が見つかった時には私も訪問して記事にしています。( .htm)
これは幅5~8m、高さ2mにおよぶ土手のようなものが45mにわたって確認されたのです。底に杭を打ち込んで、その上に粗朶を用いながら盛り土をしてありました。盛り土の際に、木の葉と粘土を交互に入れた工法をとっていて、当時としては大変に進んだ工法だということでした。説明板では土器が大量に見つかったところは「船だまり」とされていました。おそらく不用の土器を投棄したりしたのでしょう。
弥生時代後期中葉のものとされ、2,000年前のこの地に大きな船着き場があったことがわかりました。もしかしたら「吉備津(吉備の港)」はここだったのかもしれないなと思いました。

  

山陽自動車道で移築された方墳跡
道は山陽自動車道の側壁を横目に上へ上へと続きます。この日一番の険しい山登りでした。山の中腹を縫う自動車道がはるか下になったころ、やっとそこへたどりつきました。
山の斜面を大きく穿ち広い平地が作り出されています。そこへ2段の石積みがあります。正面中央にはポッカリと石室が口を空けています。中に入ってみましたがなかなか広いです。横にはこの石室入り口の扉石が置いてありました。古墳に扉石をつけたのは吉備地方では大変に珍しいのだそうで、大和政権との関連がありそうだと説明されました。
一辺が約13mの方墳で、外周と中段の周辺に石が積まれているため、まるで石積みの古墳のように見えていました。
二子14号墳で、下に見える山陽自動車道のルートにあったため、道路公団がこの位置へ移築したと書かれていました。7世紀中頃のものらしいです。
でもせっかく移築するのなら、こんな山の上ではなくて………と思ったのは私だけでしょうか?(2001,11)

  

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