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足守駅から高松駅へ、カヤ氏の本拠地だそうです

 満開です。つい一週間前にはつぼみだった今年の桜、この3~4日で一挙に咲き競っています。桜まで今年の異常気象に生活をかき乱されているかのよう。
 ということで今日は古代吉備国を語る会例会、「高松地区北部の遺跡群」と名付けて、JR吉備線足守駅に約100人の人たちが集合しました。足守川東岸、古代吉備の有名な賀陽(加夜)氏の本貫地だそうです。資料の地図をみますと、平野に舌のように出っ張った峯々(舌状台地)にずらりと古墳の数々が見えます。そしてあちこちに山城跡もあり、戦国の世に高松城水攻めのあった地でもあります。

うーむ、神石=性石??

 最初は足守川横の「生石(おいし)神社」です。足守庄の隣の生石庄との境界にあり、生石庄の中心的神社と推定されているようでした。隣に大きな石の祠があり「生石神社神石」とあります。説明に「神石は性石」とあったことが参加者の興味を引き、何とか見たいものだとちょっとした騒ぎになりました。しかし周囲は密閉してあり、わずかに上に隙間があるのみです。さすがに台まで持ってきてのぞきこむような猛者もいなく、真実は闇の中・・・となりました?
 神社の裏手には大きな弥生墳丘墓があり、ここが古代からの聖地だったことがうかがえます。また私には、神社の紋が「16花弁菊紋と、桐紋」という皇室紋と同じだったことがちょっと気になりました。
生石神社神石弥生墳丘墓

大崎廃寺跡は田んぼの中です

 次は大崎廃寺でした。古代の行政区画では賀夜郡生石郷に属する古代寺院、未調査で詳細は不明だそうです。飛鳥時代と推定されていて、最古の伽藍形式である「四天王寺式」の可能性が推定されているそうでした。うーむ、もしかしたらカヤ氏(賀陽=加夜=伽耶・・・)の菩提寺なんでしょうか?
 ほこらの裏手に、瓦かけなどがあり、写真におさめておきました。
 この地域は古墳時代全般にわたって比較的安定した地域集団が存在しており、その後の寺院造営時代(飛鳥時代)への流れも捉えられる少ない地域だそうです。さすがに今に至っても「賀陽郡」の地名を残すだけの場所だなー。感心しきりでしたが、うす曇りのこの日、なぜか気温は急上昇して27℃・・・次の古墳行きの山登りは難行になってしまいました。

大崎古墳群と野仏たち

 廃寺から谷沿いに上っていきます。左にきれいなため池が見えてきました。あれっ、正和池って、地図で3番と書いてある場所よりはるかに上に来ています。なんと地図をはみ出して来てしまったのです。そして竹林の中に、いかにも寝心地よさそうな古代のベッドが??。いやいや、天井石や奥石の失われた横穴式古墳の姿だったのです。
 近くには大崎大師堂があり、鐘を撞かせていただきました。「かーん」古代から最近までの皆様、安らかにお眠りくださいませ・・・。
 一行は山の中の遍路道へと分け入りました。道々○○番とかすかに書かれた野仏があります。お大師さんと阿弥陀さん?なのでしょうか、ペアの石仏が続きます。そしてそれからの3つの横穴式古墳の石室にすべてこれが祀られていたのです。文政年間とあるからには、1820年ごろにこのミニ霊場が作られたのでしょうか。多くの古墳群も、1200年後の江戸末期、そして1400年後の今日と、子孫たちに見られて幸せなのかもしれませんね。
 ということで、この日は山頂までの道々で、3つの大きな石室を見学しました。最後のは「知足院古墳」だそうで、数人がゆうに入れる大きなものでした。もう少し行けばあと2つ、同族のものとみられる古墳があるのだそうです。でも、みんな疲れました。なにしろ27℃なんです。

満開の高松城址でお弁当でした

 やっとたどり着きました。欲張って山の頂上まで行って、カヤ氏の?素晴らしい古墳群を見学したおかげで、昼食の高松城址はもう午後1時近く。あー、お腹すきました。でもこの満開の桜、素敵です。疲れも吹っ飛ぶ昼食休憩でした。でも風が強まり、一角の杉林からは花粉の嵐もみられました。砂嵐かとも見間違うようなすごいものですね。

帆立貝型古墳では、全国10指に入る、小盛山古墳

 お腹が膨れて眠くなって!!、でもがんばって歩きました。これまでより1つ東、高松稲荷のある谷の向かい(東)側です。最初は奥の「小盛山古墳」です。全長100mの作出し付き円墳(帆立て貝式古墳)。前方後円墳の前らしいこの形式では、全国で10指に入る規模だそうです。次の佐古田堂山古墳とともに、この地域を代表する首長墓とみられるということでした。

そして、でかい「佐古田堂山古墳」

 上が畑になっていて、眺めの非常にいい古墳!。それがここでした。こうして前方部から後円部を眺めていますと、造山古墳(350m)を思い出すほどの雄大な規模の前方後円墳です。どうしてこれが大きな話題にならないのでしょうか?全長150mだそうで、陪塚的なものもいくつか見つかっている様子。やはりカヤ氏の、初期の王の墓なのでしょうか?
 ここから午前中回ったあの山頂の横穴式古墳群へと続いていったのだろうと、想像をたくましくし、さらに400年にもわたってこんな古墳が流行った時代の、庶民の苦労はどんなだったのだろうなと、これも想像を・・・(想像力不足で)ちょっと出来ませんでしたが。

最後に戦国、高松城水攻めの堤です

 最後は吉備線高松駅近くの「蛙が鼻築堤跡」でした。秀吉の高松城水攻めの堤のあとが、今に残っているところです。地域の南東端、せり出した山の上に秀吉の本陣があり、その下からずっと堤が築かれたそうなんです。その出発点に当時の堤の一部が残されていました。
 前に当時の高松城の高さが表示されていました。もし堤いっぱいに水が湛えられたとすると、本丸の一部も水没し、城兵はみんな眠ることもできなかっただろう・・・。会主催の出宮さんは、戦国末期で戦いが総力戦になったころの「むごたらしさ」がどんなものだったか?、力説されていました。
 たしかに人を人とも思わない戦いが繰り広げられた戦国末期は、現代のイラクにも通じるむごたらしさだったようです。先の大戦で戦争は悪と世界が決めた結果の国連や日本国憲法9条です。今なおそれを改変して、戦争のできる国にしようとしている勢力があるとはとても信じられないことなのですが、歴史を繰り返させてはならないと決意した見学会でもありました。(2005,4)

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