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大きな石が取り巻いていた『楯築遺跡』

近藤義郎名誉教授を迎えて説明会

 今日は「Dao企画」というところが主催する「楯築遺跡説明会」にやってきました。関西の考古文化研究会というところのツアーにあわせ、1970年代より10数年間にわたってこの楯築遺跡の発掘に携わった、岡山大学の近藤義郎名誉教授をむかえて企画されたものです。
 『楯築遺跡』といえば、弥生時代で全国最大の墳丘墓として知られ、「吉備王国」論の大きな根拠となる遺跡です。発掘にあたって、大量の朱が発見され、一挙に話題になりました。
 また近藤義郎教授は、発掘当時岡山大学教授としてその指揮を取られ、以後も岡山考古学界の重鎮として活躍、最近ではその研究の集大成として「吉備東遷論」(注:私、勝手命名)を発表されるなど、日本の考古学でもなくてはならない方です。
 これは見逃すわけには行きません。近藤先生勝手ファンの私、オットリ刀?で駆けつけたわけでありました。

遺跡の大きさと形が!

 予定の日曜日が雨の予報とあって、急遽土曜日に予定変更された説明会。行って見ますと、地元の方々とおぼしき皆様が、準備おこたりなく・・という様子です。まもなく関西からの「考古文化研究会」の皆様も到着され総勢40名あまり。待つ事しばし、ようやく近藤先生の到着です。
 「やあやあ皆様、ようこそ。これを発掘しましてからもう20数年が経ちました。私もこんなにヨボヨボ?になってしまいましたが。あっははは・・・」まずは快活に笑い飛ばされた近藤さん。どうしてどうして、口だけは?あくまで達者とお見うけいたしました(失礼)。
 「この遺跡を見る時大切なことがあります。その第一はまずその大きさを見てください。普通の前方後円墳と比べて大きいとか小さいとか、そういう目が大事です。」うーん。まずは真摯にこの遺跡を見ろと言われているのだな?。そこから弥生後期のこの遺跡が、前方後円墳文化へと発展する経過を感じろと!!

 「私達はこれを古墳ではなく弥生『墳丘墓』と呼んでいます。形についてですが、前方部(後の前方後円墳の前方部)に似た「突出部」が22mもありまして、これは発掘で明らかになりました。この周辺に大きな石が立て並べてありました。こうした『形』を見ていただくことが第2です。」
 うーん、なるほど。これが後の前方後円墳に発展していく「突出部」という広場かー。今は団地の給水塔と化したその部分を想像するだけで、この遺跡が当時の『倭』の?『王』のものであることを勝手に想像してしまった私でした。え、『吉備の王』の間違いでは?、いやいや当時はたぶん?『倭=吉備』だったのですよ。と勝手に考えている私なのですけれどもね!。

大きな立石が取り巻いていた!

 「3番目には石列の様子を見てください。」そこからの近藤先生の行動は具体的でした。群衆もそれに連れて移動します。
 「この石、何番だっけ。そう、2番3番。あ、あっちに15番がある!」発掘当時学生で、今日のツアーに同行されている○○さんなどに確認をとりながらの解説です。
 そこには大きな石がありました。地下にどれほど埋まっているのでしょう。
 「ほかに20番など遺跡を大きな石が取り巻いています。その大石の間も少し小さな石が並べてあって・・」
 こうした状態は素人の私にとって意外な情報でした(お前がしらないだけだ?)。何回もここを訪れたつもりの私ですけど、ついつい中央の立石にのみ気を奪われて、実は円丘部や突出部が2重の列席に囲まれていたなどということに気づいていなかったのです。
 1.5m~3mくらいの大きな石が周囲にずっと立て並べてあって、その間もずっと少し小さい石が並べられ「聖域」を区切っていたというのです。
 近藤先生は「こうした列石の多くは、中央の立石とほぼ同じ大きさです。私が中央の立石が弥生時代のものだという根拠の一つは、ここにあります。」と明快に話されました。

遺跡周辺を囲む石群こうした巨石が数個おきにうーん。まさに列石
水銀朱のこと

 「あ、けっこう重いですね」私も含めて多くの参加者が一応に表明したのが、桐の箱に入った赤い物体を持った時でした。
 この遺跡の特徴として「朱」が見つかったことがあります。2重底の木郭に覆われた木棺(結果として3重底)に、大量の朱(水銀朱)があったのです。近藤先生は「発掘時、厚いところで4cmからありました。」と言われました。当時「不老長寿の薬??」として支配階級が利用しかえって寿命を縮めたという水銀朱。今は印鑑の朱などに利用されているようですが、ここでは王の遺骸を守るものとして、棺のなかに大量に入れられたようなのです。
 「木郭の底が2重になっていて、その上に木棺がありました。底が全部で3重になっていて、そのなかに大量の朱があって。大変に丁寧なつくりです。こうしたものは他に例がありません。考古学と言うものは比較の学問でして、他に比較できないということは、価値が無いということにもなりまねません。」
 近藤先生の発言が続きます。でも、先生はこうしたことから「吉備東遷説」を導き出されたようなのです。(あ、もしかしたら「吉備東遷説」は私などの勝手な命名かもしれないのですけど?)

亀石と人面のこと

 この日は、地元の方々も出向かれておられて、遺跡横の新築の社殿に『亀石』も公開されていました。1つは楯築神社に祭られ、もう1つは遺跡の木棺の上に粉々にしておかれていたという、あの弧帯紋石です。古代吉備文化を象徴する「特殊器台」にあると同じ模様、帯状の弧を描いた石です。私など最初は「あ、これはレプリカかな?」などと眺めていたのですが、どうやら1800年前から伝わる本物だったようなのです。
 しげしげとながめていますと、正面の「顔」とおぼしき部分が目に留まりました。以前に「岡山大学一般公開」の時には「後世のもの」と理解していた私ですが、今日の近藤先生は「この顔、へこんだり、大きな傷は後のものでしょうが、ここに細い線で目と口がわかるでしょう。これは弧帯紋の線と同じもので当時のものです。当時はつるっとしたきれいな顔が描かれていたと思えます。」と解説されました。うーん。なるほど。今までの誤った理解が正されてきました。

はしはか古墳のこと

 最後に近藤先生は奈良の「箸墓古墳」に触れられました。「箸墓は、前方後援墳時代の最初のものといわれている」といわれ、そこに吉備の特殊器台などが出土していることから、この楯築との連続性をとらえられたのでしょうか?
いよいよ吉備東遷説の登場です。
 でも、考古学者の先生のこと。私の希望のようには先走りもされないようでした?。

 今日の収穫は、とり巻く列石の確認でした。個人で行ったのではとてもそういったことには気付きません。ありがとうございました。(2004,2)

楯築墳丘墓は、上の図のように、両側に22mにわたって突出部(方部)があり、中央の円墳部とともに、2重の列石で囲まれていました。列石は中央の立て石と同じような大きさの石が点々と連なり、その間は少し小さな石が連なっていました。弥生時代末期では、全国どこにも比べるべきもののない、「王の墓」といってもよいものです。

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