古代出雲のパルテノン、田和山遺跡を守ろう
 ~シンポジウム「田和山は生きている」から~

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 2000年最初のHP取材の旅は、島根県松江市でした。シンポジウム「田和山はいきている~古代出雲が語りかけるものから~」。出雲は吉備とも関係が深く、1度出かけたいとおもっていたのですが、予定が空いたので思いきって出かけました。朝5時半に自宅を出て、岡山からはサンライズ出雲という寝台列車。
 でも、来たかいがありました。600人入るという島根県民会館中ホールはほぼ満員状態。田和山遺跡の重要性をこもごも説く諸講師の熱弁に、会場は熱気に包まれていました。
 といっても私、田和山遺跡についての予備知識はほとんどなかったのです。

 シンポジウム「田和山はいきている~古代出雲が語りかけるものから~」
 2000年1月9日(日)、10時~16時。島根県民会館。
 午前中は講演で、大塚初重(明治大学名誉教授)、苅谷俊介(俳優)両氏の講演。午後は最近の出雲地方の発掘成果の紹介と、午前の2人に、西谷正(九州大教授)、広瀬和雄(奈良女子大教授)両氏を加えてのパネル討論でした。

 それでは私がなんとか理解した、初心者むけの「田和山遺跡」速成講座です。

 田和山遺跡問題、速成講座

 松江市が市民病院建て替えのために目をつけたのが、以前に文化財保護目的で収得していた田和山地区でした。市西部の郊外、宍道湖畔にある48メートルの小山、上にあるのはまあ普通のどこにでもある古墳群でした。いちおう発掘調査して記録保存し、本体は崩してしまって田んぼを造成する土にでも使おうという計画だったのです。

 ところが発掘してみると、なんと3重の環壕(堀割と土塁)が出たのです。しかも険しく巡っていてとても登れないようになっている・・。壕のなかからは3000近い石つぶてが出てきた。土器をみると弥生前期になる・・・・・。
 さあ、それからが大騒ぎです。
 小さな丘なのですが、こんな厳重な防御施設は、当時の日本広しといえども他に例が無い。しかもあの荒神谷の銅剣や加茂岩倉の銅鐸が埋められた時期と符合する。
 「これは古代出雲の人々が、あの銅剣、銅鐸を使ってこの田和山で祭をやっていたにちがいない」という有力な説が出てくるのは自然のなりゆきです。
 この遺跡の役割についてはまだ諸説あって固まっていませんが、「弥生時代の激動期に重要なポイントになる遺跡」という点ではみなさん一致。記録保存という破壊ではなく、ぜひ現状保存をという声は高くなるばかりです。ついに昨年には裁判までおこされ、署名運動もすすんでいます。
 しかし、松江市は現状では「記録保存」に固執していて、今年前半にも田和山は崩されるかもしれません。
 ある人は「古代出雲のパルテノン神殿ともいえる田和山を壊すのですか。」と言ったというのですが、まさにそのとおりだとおもいました。このHPは吉備がテーマなのですが、シンポジウムに参加して、番外編としてぜひ書こうと、帰る車中で原稿を書いてしまいました。

 では、当日に採択されたアピールを載せて、報告にかえたいと思います。(2000、1)


田和山遺跡は古代出雲の宝
 田和山は宍道湖の岸辺の小さい丘だ。頂上に立つと西方遠くに北山の山並みが、正面には朝日山が、北東にだけ山が、南東に茶臼山が、そのはるか向こうに大山の雄姿がそれぞれ見えてくる。
 3重の壕で囲まれた丘の上には柵囲いされた神殿があり、望楼が建てられていたという。壕下の斜面には、この聖丘を守護する衛士たちが屯していたらしい。
 聖なる丘の終焉は武闘によってもたらされた。きっとこのころに銅剣も銅鐸も人知れぬ場所に埋められたのであろう。輝ける古代出雲の歴史は転換する。
 だが聖域は滅びていない。やがて古墳が造られ、神社が建てられて信仰の伝統は守り続けられる。田和山は今も遥拝されている。丘のむこうに昇る太陽が素晴しいからか。
 田和山、それは2000数百年もの昔から神々の降り立つ丘だ。この丘に込められた弥生青銅器時代の物語を遺跡の中から感じ取ることの楽しみと喜びを私たちの世代で打ち捨ててはならない。古代出雲の宝・田和山遺跡を保存するのだ。
 そこで田和山を語り、古代出雲を見つめ、そして郷土の歴史遺産を護り、伝えることの大切さを大いに主張しよう。
  2000、1、9       講演とシンポジウム  田和山は生きている


(イラストは、当日配布された資料を許可を得て転載しました。ありがとうございました)
田和山遺跡のホームページへのリンク

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