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哲西、哲多を行く・若山牧水

 今日はご近所の多津美公民館の郷土史講座、館外研修です。年一回のバス旅行で、満杯の28人が参加されました。「豊洲の歴史」刊行で親しくなったFさん、Kさんも同行、お天気もよく楽しい一日でした。行き先は今度新見市に合併されましたが、哲西、哲多という、岡山県の西北の端の地でした。

県境の地に若山牧水の歌碑が

 最初は岡山県と広島県の県境、同時に元の備中と備後の境です。ここは新見から東城(広島県)へと抜ける二本松街道と言う少々マイナーな街道があったらしいのです。木の柵が復元されていたり、境界石があったり、興味深いところでした。なぜか広島県側は家並みが続いて街道らしい景色でした。江戸時代、この一帯は複雑に領有が移り変わるようですが、末期にはここを境に西は浅野藩(広島)領、東は幕府領だったようです。
 ところでここに若山牧水の歌碑があったのです。
 『幾山河 越えさりゆかば さびしさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく』
昔教科書で見た牧水の代表的な歌です。どうやらこの地で読まれたようです。ここには全国で唯一、夫人喜志子、長男旅人の歌碑が併設されていました。
備中・備後国境付近。むこうが備後若山牧水の歌碑

矢田の石仏

 道路の横にお堂がありました。見ると自然石に阿弥陀如来が線彫りされています。文永2年(1265)とあり、年月日が残っている石仏としては岡山県下最古のものだそうです。昭和初期に半分埋もれた姿で発見されたとか。日本は鎌倉時代からこういう奥地まで開発されていたのですねー。
 と思っていたら、資料では「哲西町には弥生時代から古墳時代にかけての多数の遺跡があり、(略)縄文晩期から古墳時代にわたる各時代の遺物が出土しているが、なかでも弥生時代前期の土器は、出土例の少ない前期前半期のもので、この地域が早くから開発されたことを示している」とありました。
 おそれいりました!。

荒戸神社

 哲西と哲多の境にある荒戸山(782m)のふもとの荒戸神社に行きました。室町時代の簡素な建物の様式を残す数少ないものだそうで、元は山の頂上にあったそうです。長い風雪に耐えた神社、江戸末期と言われても納得してしまうようなものでした。
 ところでこの哲西哲多地方は、高梁川上流地域に当たり、かっては鉄穴(かんな)流しが盛んだったところです。河川を濁流化させ、下流諸村の水田に被害を及ぼすため古くから問題になっていました。江戸初期にはもう鉄穴口数が制限され、江戸時代を通じて、上流下流の紛争が続いたようです。高梁川が暴れ川となった原因のひとつははこの鉄穴流しで、下流干拓地帯である我が家一帯の、長期にわたる洪水被害の遠因となった地方を歩き回って、一種感慨深いものがありました。でもそのおかげで今の倉敷市から岡山市藤田地区に至る、広大な児島湾干拓があるのかもしれませんね。歴史は不思議なものです。

かわいい花が咲く湿原が2つ

   この地方は「鯉が窪湿原」「おもつぼ湿原」という県下で他にない湿原地帯があるところでもあります。特に鯉が窪湿原は西の尾瀬とも形容されて、多彩な湿性植物や希少種の昆虫などが多数成育しています。この日は花にはまだ早く、リュウキンカが黄色い花をつけていたのみでした。  おもつぼ湿原には「すずらんの園」があり、かわいいすずらんが今を盛りと花をつけていました。  どちらの湿原もため池が築かれ、その周辺に湿地帯が広がるという状況でした。中国山地は、水田に水を供給するため古くからため池が発達していたようです。(2005,5)
鯉が窪湿原すずらんの園のすずらん

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