おびただしい住居跡、弥生前期の水田跡も! 
ー津島遺跡発掘現地説明会にてー

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 岡山市は、蒜山高原に源をもつ旭川の三角州に発達した街です。江戸時代以来の児島湾埋め立てで沖へ沖へと陸地が出来ましたが、2000年前には市街地北部の山すそまで海が迫っていました。当時の旭川はおそらく河口近くでいくつかの流れに分かれ、低湿地を形作っていたのでしょう。
 そのうちの1つ、市街地北部の津島地域では「津島遺跡」といってかなり広い範囲に弥生時代の水田跡が発見されていました。1部は「国の史跡」に指定されています。現在は「岡山県運動公園」といって、野球場、陸上競技場、プール、武道館などが集中する地域で3す。1962年の岡山国体の主 会場として整備された場所ですが、次回の岡山国体(2005年)の主会場としても再び整備しなおされることになったのです。
 そして遺跡調査が始まったには、今年の1月のことでした。その「津島遺跡発掘現地説明会」が行われるというので梅雨の晴れ間の1日、出かけて見ました。最近は岡山でもこうした催しへの関心は高く、この日も大勢の人たちがつめかけていました。あとで聞いたところではおよそ200人余りとのこと。数班に分かれて学芸員の方の説明を受けることになりました。

吉備の大都市のまん中を掘り当てたような!
   発掘場所は、陸上競技場のスタンド建設予定地と、照明灯の予定地だそうで、約半分が発掘または発掘中でこの日の公開対象になっていました。2地点に分かれていましたが、パンフレットの地図をみますと、ちようど古い川の跡の両岸にあたっているようでした。
 東側の第3地区という場所から出ていたのは、発掘現場一面の住居跡でした。古墳時代だそうですが、丸いものや四角いものなど、たてあな住居のあとがそこいらじゅうに見られました。
 ちょうど「吉備の国」が最盛期のころの大集落(大都市)の真中でも掘り当てたのでしょうか?。ある場所などはいくつの住居跡が重なり合い、時代を追って立て替え立て替えされた様子がわかるようになっていました。
 柱穴がいくつも連続した、倉庫様の建物跡の部分も見つかっていました。
 古い住居にはかまどがないようでしたが、多くの住居跡はかまどの跡がありました。この頃大陸からかまどが伝わってきたのでしょう。
 「ほとんどは家の北側の壁の、それも中央あたりにかまどが築かれているのですが、この家は北東の隅にあります。またこっちはなぜか東側の壁についていまう。それと、ここはなぜか煙突だけが東側へ長く導かれています。隣家への配慮でもあったのでしょうか。」
 かまどの位置や築き方は学芸員のかたの興味を引いたようでした。でも隣家に火が及ばないようにとかまどの煙出し位置を変更するなど、弥生都市もけっこう過密だったようですね。何だか現代にも通じるようで具体的イメージがわいてきました。

吉備の土器は薄くて固くて
   「ここを見てください。これはトレンチといいまして、サンプル的に深く掘り下げたものです。こことここが色がちがうでしょう?」
 学芸員方が身をかがめて指差しておられます。鋭く掘りこまれた溝の側壁に、横にスウッと線が描かれています。なるほど良く見るとその線の上と下とでわずかに土の色が違うようです。
 「この下側が自然の土で、上はあとで埋まったものです。この境目がいわば当時の生活面です。こういうところを細かく見ながら掘っていくと、このように住居の跡などが形になってくるのです。」
 うーん。なるほど。でもこれではよほど慣れないと見逃してしまうだろうなー。素人の私は、なんとなく掘っていって硬いところがあったら・・・なんてぼやっと考えていたのですけれど.。2,000年も経つとそんなことはないですよね。今日は勉強になりました。
 おっと、何かある。私たちの歩いている足元に何か土器のようなものが顔を出しているではありませんか。よくみるとあちこちにまだ掘り出されていない土器があります。 説明会場の横には、今回発掘された土器なども時代を追って展示されていました。
 「このように弥生の土器はかなり装飾がありますが、時代が新しくなって行くに従ってシンプルになっています。これなど薄くて非常に硬いです。窯を築いて高温で焼き締めたものです。当時から吉備の土器は薄くて硬くて全国でも優秀なものでした。こうしたものが今の備前焼になっていくのでしょう。」説明の声も何がしか誇らしげではありました。

最初の田んぼは低湿地に畦を築いて
 もう1箇所の第一工区というところは、旧河道の西側にあたります。ちょうど現代の棚田程度の大きさの水田跡が発掘され、わかりやすいように白く表示されていました。
 「あの右の低い部分が当時の川です。ごらんのように水田は川に沿っています。弥生の前期ですからおよそ2,300年ほど前には、川といいますか低湿地を流れる水の流れに沿って畦(あぜ)をつくって水田にしたのでしょう。それがずっと手前に見えるのは溝の跡ですが、完全に東西になっています。後の条理の跡だと思います。」
 「あの田の中央あたりから石包丁が出ています。」
 なるほどちょうど手の中に入るような半月形で直線部分に刃がついて、穴が2つ空いた、あちこちの展示でよく見る石器が展示されていました。あの穴にひもを通して、手で稲の穂を摘みとっていたといわれている穂摘み具です。
 「昔の人はこうして1本1本穂を摘んでいたと思われます。が、ここで問題です。なぜかわかりま すか?」
 突然の質問が飛んできました。えっ!!。ただ1株まとめて刈る道具がなかっただけじゃあないのですか?。
 「当時の稲はまだ一斉に実が熟れるような品種改良がされてなかったため、このような道具で穂の実り具合を確かめながら、あちこちと摘んでいたと言われています。」
 ほんとうかなーー?。
 日常的に発掘に携わっておられるおよそ20~30人の方々も会場におられました。冷たいお茶をごちそうしていただきました。ありがとうございました。おや、何だか見なれたお顔があるではありませんか?。つい先年まで毎日同じ職場でいっしょに仕事をしていた大先輩です。そういえば定年後に遺跡発掘に携わっておられると聞いたようにも思います。
 「やあやあ。」
 「こんにちは。ご無沙汰しております。」
 日に焼けられたせいか、職場におられたころよりもずっと健康そうです。懐かしさにしばらく旧交をあたためましたが、なかなか面白そうでついつい「私も定年後にはやってみようかしら?。」なんて思ってしまいました。(2,000.7.1)

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