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牛窓オリーブ園は、古墳のなかでした

 岡山県牛窓町。県 東南部の瀬戸内に面した古くからの港町です。「日本のエーゲ海」と言われる風光明媚なところで、背後の丘陵にオリーブをたくさん植えて「オリーブ園」が名所になっています。またペンションや別荘地帯が関西からのお客も引き寄せています。かっては朝鮮通信使が立ち寄って伝えたと言われる「唐子おどり」の地としても有名です。

水田地帯でないのに、なぜか古墳が多い?

 今日は「古代吉備国を語る会」の例会で「牛窓湾をめぐる遺跡群」としてこの牛窓一帯を歩き回りました。久方ぶりの腰痛でちょっとつらかったのですが、秋晴れの一日十分楽しむ事ができました。
 この牛窓、背後のオリーブ園の山の北側は元錦海塩田で、古くはちょうど瀬戸内海に突き出した細い半島だったことがわかります。しかも山が多く、平地は海に面したほんの狭い地域です。
 「古墳はたいていの場合、近くに水田地帯が栄え、そこの有力者がほおむられたと考えられます。しかしこの牛窓のような水田地帯でないところに、このように古墳が多い?。」いわば吉備のミステリーのひとつのようなのです。「当時海上交通路の拠点として栄え、その首長たちの墓」という解説が一般的なようですが、この日の「会」資料でも、内陸部の邑久地区の古墳達との関連を詳しく解説するなど、この「謎」解明に力をいれておられました。

牛窓湾を取り巻いて、5つの大規模古墳が!

 「あの海のむこうの島の、山の上がこんもり盛り上がっているでしょう。あれが黒島古墳です。ここ(牛窓天神山古墳)とあの黒島古墳、それにあと3つの大きな古墳が、ちょうど牛窓湾を取り巻くように配置されているのです。」
 地図をみますと、なるほどそうです。ちょうど牛窓湾を五つの古墳で護るような形になっています。うっ、この形に何か符号でも?などと勝手に想像してしまったのはどうやら私だけだったようですが。でも想像すればしたで、どんどん広がります。「牛窓古代史ミステリー」なんて小説でも?
 とうのはおいときまして、今立っているのは牛窓の古い町並みのほぼ中央の裏山、天満宮の横にある「牛窓天神山古墳」横です。「おや、ここにも菅原道真が立ち寄っている」と興味深く解説を読んでいる私をしりめに、集団はどんどん進みます。全長85mの前方後円墳。前方部が低く、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀頃と推定されるそうです。牛窓の大きな古墳のなかでは1番古いとか。
 そしてはるかに見える黒島古墳、後に行った鹿歩山古墳(84m)、「波歌山古墳跡」(60m)、湾の西端に見えている二塚山古墳。これらの前方後円墳は4世紀から6世紀にかけての、牛窓首長の墓として順番に築かれたもののようです。そして時代的に欠けたときがあり、その時は内陸部に首長の墓がある。どうやら内陸邑久地域とこの牛窓とは古墳時代には密接な関係があり、交互に首長を務めるとか、そんな関係にあったのではないか・・・というような解説もされていました。これも古代史ミステリーの世界ですね。

「牛窓天神山古墳」横はるかに見える黒島古墳山上の鹿歩山古墳

いよいよ「オリーブ園古墳群」へ。約50基もの古墳が

 あ、これは私の勝手命名です。正確には「阿弥陀山古墳群」というそうです。牛窓(半島)の大部分は丘陵地帯で頂上は166.9m、その周辺がオリーブ園になっているのです。歩いて上りましたので、けっこう大変でした。でもそのおかげで昼食も美味しくいただけ、絶景もゆっくりと楽しむ事ができました。
 そして、そのオリーブ園周辺が古墳地帯で、東西2キロ、南北500mの範囲に、円墳がなんと50基以上もあるのです。オリーブ園を散策していますと「あ、あそこに」「おや、ここにも」・・・数m規模の石室が露出しているのが、次々に目に入って来ます。
 時代的には首長墓の最後の二塚古墳と同時期あたりから作られ始め、首長墓が途切れたあとも7世紀に連綿と作られ続けていったようです。
 この日の資料では「それらは塩生産という手工業生産を土台にして新たに台頭してきた民衆の墓である。」首長たちの没落した後「民衆達の動きで歴史を語る時代が、8世紀の強後な中央集権体制の整う直前に存在していた。」とあります。
 す、すごいことです。それにしてもこの古墳群を観察した結果としてこのような想像的結論が導き出せるとは、考古学というのはまたすごいものですね。

道路わきに口をあけた古墳オリーブ園内にはいくつもこのような古墳がなかには立って入れる石室も

そして朝鮮通信使ゆかりのお寺とお宮

 この日最初に行ったのは「本蓮寺」というお寺でした。。古い町並みのほぼ中央にあります。「昔はこの前の道まで海で、江戸時代の朝鮮通信使は海からこのお寺へ直接上がって、接待を受けたそうですよ。」詳しい方が解説しておられました。
 南北朝以来の古いお寺で、本堂は500年余り前再建された国指定重文でした。

 そして最後に訪れたのが「疫神社」です。牛窓のほぼ西端にある神社で、秋祭りに唐子踊りが奉納されることで有名です。つい先日行われたそうですが異国風の衣装を着て、男児2人が対舞するもので、江戸時代に牛窓に寄港していた朝鮮通信使が伝えたものといわれているそうです。テレビのニュースなどでは時々見るのですが、会場が以外に狭いのにちょっと驚きました。
 古い伝統的な町並みを残す「牛窓」。古代ミステリーもあり、朝鮮通信使という近世文化のいぶきも感じられ、また「日本のエーゲ海」としてパラグライダー大会など近代的な催しもあり、港にはヨットが連なる・・・大変に魅力的な場所でした。(2003,11)<p>

本蓮寺本堂疫神社境内

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