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和気氏の本拠地を巡る

 今日の「古代吉備を語る会」は「和気氏の本拠地を巡る」と題して、山陽本線吉永駅から和気駅までの行程でした。時雨が次第に地雨に変わる中、参加のお年より達のお元気なこと。なかでは若い部類に属する私も、着いていくのがやっとっという状態です。

 

 飯の山遺跡と堂山古墳のこと

 このあたりは吉井川の東で、支流の金剛川が流れている流域にあたります。古代吉備としては吉井川より東は遺跡の少ないちょっと外れた地域です。
 まずは「飯の山遺跡」。「この山麓から『骨臓器』が出ていて、奈良時代の火葬墓のあとです。これは当時このあたりに仏教を信仰していた人がいたことを示します。」
 次の堂山古墳(10mの円墳)とともに、「あのあたりです。」という少々フラストレーションのつもる説明でした。やはり吉井川よりこちらは調査もあまり行われていないのでしょうか?

 

 溜池、ためいけ、また溜池

 それにしてもここいらは、灌漑用溜池のすごく多いところです。山が迫り、川は切れ込んで、棚田とまではいきませんが、田と田の間に水準差のあるところがほとんどです。堂山古墳の横も小さな溜池でしたし、そこから下に一目で二つもの溜池が見渡せました。
 次に訪れた「飼葉瓦窯跡」も上り窯跡のほとんどを大きな溜池に削られ、一番奥の窯壁がわずかに確認できるだけでした。でも異常少雨で干上がった池の底に今でも古い瓦片が確認できたのは幸いでした。
 「奈良時代から中世にかけて断続的に瓦を焼いたあと。」ということでしたが、ではさきの「東大寺再建瓦窯跡」に比べてかなり古い窯跡ということになりますね。

 

 「和気清麻呂」の像と和気氏政庁跡

 和気というと和気清麻呂です。奈良時代に弓削の道鏡(そういえば大阪府出身と言うこの人、岡山県久米南町弓削とは関係ないのでしょうかね)の天皇即位に反対し、戦前の皇国史観では三大忠臣として天まで持ち上げられていたあの和気清麻呂です。
 この日のお話しでは、和気氏はどうやら美作の出身で、この和気郡を根拠とし、清麻呂の中央での立身出世にともない有力氏族となって行ったということのようでした。
 和気神社の前には大きな和気清麻呂像が立ち、当時の和気郡衛跡(和気氏政庁跡と呼ばれている)には山陽本線からも見える大きな記念碑が建っていました。あ、和気神社の横の藤公園は全国の藤を集めてあり、春の開花期には多くの観光客を集めています。

 

 和気氏の氏寺、二つの廃寺は今?

 最後に訪れたのが「藤野廃寺」と「和気廃寺(衣笠廃寺)」でした。ともに和気氏の氏寺と考えられているこの2つのお寺。当時は繁盛したのでしょうが、現在1つ(藤野廃寺)はその跡に日蓮宗のお寺が建ち、いま一つ(和気廃寺)は家並みと田んぼの中に小さい跡地が残されているのみでした。
 和気廃寺では「正三位輔治能主塔」と書いた記念碑がありました。和気清麻呂が「道鏡を天皇に」という宇佐八幡宮の神託を確かめに行った時、「輔治能真人(ふじのまひと)」の姓をもらったと伝えられています。もしかしたらこれは和気清麻呂の墓(主塔)だったのでしょうか?。横にいろいろと書いてあったのですが、よく読めなかったのが惜しまれます。
 輔治能←→藤野。分←→和気。う~~ん。

 ちなみにこの日の私の万歩計は、22,118歩でした。12~3キロ歩いた計算になりそうですね・・・。(2002,12)

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