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造山古墳は、倭の大王(讃)稜だった!

 ショッキングなタイトルで登場するこのレポート。本当に私のフラストレーションを粉砕するに足る出来事でした。あ、相変わらず「古代吉備王国を語る会」2004年3月例会での出来事なのですけれども。す、すごい!!

まずは、助走!弥生の2遺跡から

 春の暖かさに恵まれた2004年3月中旬のこの日、「古代吉備王国を語る会」は、主催の出宮徳尚さんを講師に、いよいよ吉備王国のハイライト、『造山古墳』に挑んだのであります。
 でもさすがに出宮さん、プロローグを用意されていました。
 まずは、少し前の時代からと、2つの弥生墳丘墓です。「雲山鳥打墳丘墓」。JR吉備線備中高松駅から歩く事しばし。山陽自動車道の岡山ジャンクションのすぐ横にありました。「これって、自動車道が避けて通ったんですか?」なんて疑問がわくほどの位置です。山の上に3つの弥生墳丘墓が確認されていて、発掘では木棺や木郭も確認されたそうです。「じゃあ、これから突撃します。」という言葉と共に始まった探索。道無き道を藪の中に突入した約100人の会員達の足と足。山中に獣道ならぬ人道を残して、「ここが雲山鳥打墳丘墓です」と確認したひとときでした。

次はちょっとポピュラーな、「鯉喰神社墳丘墓」です。

 岡山市矢部の古い集落のど真ん中にそれはありました。宝泉寺というお寺のすぐ隣でした。あの温羅(鬼ノ城の主)が鯉に化けて逃れようとしたのを吉備津彦が鵜になって捉えたという「鯉喰神社」です。この社殿の真下がこんもりとした丘になっていまして、弥生墳丘墓だそうです。「うーむ、じゃあ温羅の墓かな?」なんて私はすぐ早とちりをするのですが・・はたして?。
 ちなみに、ここからは楯築遺跡(弥生墳丘墓)がよく見えていました。この3つの弥生遺跡の時代関係は、楯築→雲山鳥打→鯉喰となるそうです。
 この日の説明では、足守川周辺など備中南東部には、この3つと同じような弥生墳丘墓がたくさんあって、これは同じ吉備でも高梁川より西や備前部とあきらかに違って、当時ここいらあたりのみに、地域の首領を墳丘墓(高塚)に奉る風習があったと思われるそうです。この『高塚文化』がその後大和の前方後円墳文化につながり、それがフィードバックして、吉備の巨大前方後円墳築造にと発展していく・・・。うーん。歴史は微妙に発展するのですね??。

またまた、山中の古墳に突撃・・の巻き

 さすがに「古代吉備王国を語る会」です。期待する「造山古墳」のまえに、もうひとつ「かなめの古墳」を用意しておられました。う~ん。
 またまた道無き道を極めることになった多くの面々!でも若い?私など置いてきぼりの勢いで皆様坂道を進まれます。す!すごいです。
 矢部瓢箪塚古墳だそうです。
 「ここは、弥生時代の『楯築、雲山鳥打、鯉喰、女男岩』という各墳丘墓を扇としてその要の位置にあるんです。」
 あらあらじゃあ、古墳時代になって先祖の墳丘墓を全部見渡せる位置に築いたんですね。なんとなく心情が理解できるではありませんか。
 先に言った「フィードバックしてきた前方後円墳の最初の古墳の一つではないかと言われるそうです。

そしていよいよ『造山古墳』へ

 ジャジャジャジャーーン。午後からはいよいよ待望の『造山古墳』探訪でした。今日のメインテーマは「造山古墳は、倭の大王稜か?」です。で、でも、出発前に出宮さんの一言「私が言うからには勿論大王稜です。さらにいえば讃(倭の五王のうち)の陵墓です。」

 な、なんとはっきりと断言なさっての今日の遺跡巡り行になったのです。いやまた、盛り上がる事盛り上がる事。「今日の私は『岡山モンロー主義』ですので。」いちおう言い訳を用意された出宮さんですが、もちろん私も含め参加者の多くが『岡山モンロー主義』賛成(え、違う??)ですので、期待は大いに高まった一日でした。
 「こうして、造山古墳の図面の、西半分をひっくり返して対称形をつくりますと、伝履中稜とまったく同じになるのです。掘りはないですが、周囲に墓域を画する輪郭があって・・。」
 普通はまず古墳の上に上がるのですが、今日はさすがに「学術的探求に皆様をお誘いします。」というだけあって、まずははるか離れた?田んぼのなかへ。どうやら田んぼの境界の畦道がぐるっとカーブしていて、造山古墳の範囲はここだよ・・と示しているところのようです。ちょうどみんなが立って歩いた畦道です。この墓域を含めて大和や河内の大王稜と同じ様相を示している!  

石棺に朱がぬってあった!

 やっとたどりついた造山古墳の前方部。まず解説されたのは、放置された石棺です。阿蘇の石で作られたことで有名なものですが?
 「これは大正時代に近くの新庄車山古墳から出たとも言われています。しかし、この上にある凹みをみてください。これは江戸時代によく行われた祭祀の跡と思われます。時代があわない!。やはりこれはその昔この造山古墳から出た石棺だと思います。船形に削られたものですし。
 では、この蓋はどこにあるのか?ご案内しましょう?」出宮さんも少々芝居かかって・・。
石棺からちょうど神社の反対側にある石を指し示されます。なるほど、割れているようですが同じ石のようです。「この下を見てください。朱が塗られている。」あ、確かに。楯築で大量にあった大王墓の水銀朱。ここにもあったのです。大王稜の状況証拠が次々に明らかになっていきます。

倍塚の様子が、河内の大王稜とそっくりと

 そのあとは、「造山第一号古墳」「同2号古墳」~「千足古墳」といわゆる倍塚をめぐりました。「これらは必ずしも同時期のものとは言えないが、いずれも版築でしっかりとした造りがされており、大王稜に付属する倍塚と遜色無い。これも造山古墳が倭の大王稜だという説の傍証になっている。」

じゃ、じゃあ、誰の墓?

 思わず聞いてみたくなる説明です。で「吉備の弥生墳丘墓から突如大和の前方後円墳へと移っていくのですが、その後大王稜は河内に出ます。その境目にこの造山古墳があるようです。当時は全国の連合国家ですが、大和から河内へ都が移る間に、何らかの理由で吉備にも大王権が来た時期があったのではないでしょうか?。
で、このような大王稜としか考えられない巨大古墳が築かれたと思うのです。」
連合国家として、その王権は各地を点々としたかもしれない?
 ということで、中国に3回も使いを送ったという「讃」は一人ではなかった!。一人はこの吉備の人で、造山古墳の主・・という図式が浮かび上がってくるようなのです。
 う~む。さすがさすがではありませんか。私も認識をあらたにしなくてはなりません。
 う、まてよ!。そうすると、この吉備に倭の『都』があったことになります。どこでしょう。

造山古墳は「王城の位置」

 さらに説明が続きます。先年、中国洛陽の李徳方氏を招いた時、氏はこの造山古墳を一目見て「これは王城の位置にありますね」と言われたそうです。背後に山を抱き、そこから両側に翼状に取り囲まれている、まさに中国で風水に言う「臥龍の形」をなしている・・と言われたそうなのです。
 そういえば、背後の日差山は形のよい三角形をしていて、両側になだらかに稜線を延ばし、この古墳を取り囲んでいるように思えます。じゃあ、この古墳の後円部の方向を延ばした位置に、もしかしたら当時の都が?尚もこだわる私をよそに!。
 「周囲の他の古墳とは全く異質の、吉備の地に突如現れた大王稜形の大古墳。このことはこの古墳が単に吉備地方の王のものではないということをあらわしている。」主催者の説明はますます熱を帯びてきます。

 私も古代吉備探求では「吉備王国」についてつぎつぎに確信を深めてきた昨今ですが、今日の会ではそれを明らかにうわまわった講義を聴いてしまいました。う~ん。吉備にも「倭の都」がきたことがあったのです?。出宮さんならずとも、そのように考えれば、これまでの多くの「吉備王国」に関する疑問が次々に氷解していくではありませんか。ますます楽しくなってきた「趣味の古代吉備」探求です。(2004,3)

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