水島の先人たちの記録
水島東川町の物語
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 水島の街を歩いていますと、どこの町内にも広い公園があるのに行き合います。これは福田側の旧福田新田、古新田や連島側の旧諸新田も同じです。家々がびっしりと立ち並んでいるのですが、なぜか広々としてゆったりとした生活空間をかんじさせるのです。
 道路が広いこととともに、水島は本当に住みやすいなーと感じる街でもあります。

水島干拓50周年の石碑

 その公園の中の一つに「東川公園」があります。市街地のほぼ北の端、水島東川町です。

 そしてその中に「東川開墾50周年記念碑」という大きな石碑がありました。すごいなー、何だろうとみてみますと、「昭和59年4月建立」とあります。1984年、そう、もう32年も前です。ということは、82年も前の水島の開墾を記念した石碑なのです。そして、裏面に当時の開墾の様子や、初代の入植者たちの名前がずらずらと・・・・。

 水島の歴史では、三菱の飛行機工場が来たことや、戦災から始まり、大工業地帯になったことなどが主なものと思っていました。が、どうやら大正時代の東高梁川締め切りのあと、その旧河底にへ入植してがんばっていた人たちがいたんだ。水島の先人の記録がここに・・・。そう言えば「東川町」って、東大川(東高梁川)のことなんだ。私は全く興奮してしまいました。

「東川町史」ってありました

 その後、「みずしま財団」の塩飽さんから「東川町史」という本を紹介されました。「水島の歴史がよくわかるよ」と言われて。
 そこには何と、164ページにもわたって、昭和の初期から東高梁川の廃川地に入植した方々の苦闘の歴史が記されているではありませんか。50周年の石碑とともに発行された本です。すごいです。

 その「はじめに」というところで、高橋進さんという方が、次のように書かれています。以下抜粋します。(見出しは杉原によります)


一面の葦原を懸命に開墾、しかし・・・

 高梁川の大改修工事により、酒津締切堤防以南は、一面葦の生い茂る廃川敷となりました。昭和3年から県内外の各地より、新天地を求めて、入植したのが我が東川町の一世たちです。
 初代入植者たちは夜を日についで開墾に励み、ようやくその苦労も報いられようとした昭和14年、日支事変の勃発、つづく太平洋戦争の余波を受けて、三菱航空機製作所の立地による土地の強制買収を受ける憂き目を見たのです。

飛行機工場の土地強制買収で無一文に

 国の政策ということで、国債という紙切れ一枚で、土地・家屋を徴収されたあげくの敗戦で東川町民は丸裸の無一文になりました。
 この絶望的な状態から立ち上がった東川町民は、荒れ果てた田畑を再び掘り起こして、食糧生産に努めてきましたが、

2度の土地を手放しながらも奮闘

 昭和45年、またしても水島工業地帯の造成により、土地を手放さなくてはならない事態となりました。しかし、踏まれても踏まれても又芽を出す雑草のように、住民は固く手を取り合って逆境を切り拓いて来た結果、今では近所もうらやむ立派な町内になっています。(略)
 僅か20戸にすぎない集落だった東川町が「養鶏組合」「蔬菜出荷組合」「国有地払い下げ組合」とそれぞれの時代に応じて、知恵を集め、お互いに助け合って対処してきた・・・・・


 以上は「はじめに」の一節ですが、この本には各所に水島開拓の苦労があふれています。これはもう直接当人たちからお話を聞かずにはおられません。

 ということで、石碑やこの本の編纂に携わられた方々を探しました。といってももう30年以上前のことです。なかなか連絡先がわかりません。
 そのうち、「小松原政夫」という方に電話が通じたのです。幸い水島東川町の方です。さっそくお訪ねしました。

先人の一人にインタビューです

 小松原さんは、「私がここへ来たのは、昭和10年ごろでしたかなー。小学校5年生。私は次男でしたから、先にここへ入植した叔父の養子になってやってきたんですわ。」80数歳とは思えない快活な声で話していただきました。

 私のHPのプリントアウトを持参してみていただきました。
 「八間川は、私も小学校に呼ばれて、説明したり質問に答えたりしましたなー。昔は本当にきれいな川でした。先日もホタルを復活しようと活動した方がおられましたが、どうやら失敗でまた来年でしょうか?」
 「この本(東川町史)を作ったのは、昭和49年でしたか、たしか私が町内会長のころでしたね。川崎さんがほとんど書かれたのですが、あの方は父親がソ連に抑留されたんですよ。本の発刊と同時に、公園に記念碑を作ったのですが、最初なんだか市から横やりが行ったりして、苦労したんですわ。」

廃川地を覆う葦の原・東川町史より
 「入植したが、畑は砂地で何も取れん状態でした。その中にコンクリートで水路を作り、八間川にポンプを据えて水を上げて畑に流したんです。ここらは3~4mも掘ったら水が湧いてきます。そうして畑に水をやっていた人もいましたなー。」
 「八間川の向こう側(東側)は家がなく、砂地ばかりで砂漠みたいでした。広くて子供たちのいい遊び場でした。そこらはずーとあいとったんですわ。そこへ(三菱の)職員住宅、工員住宅ができたんです。ここいらは(廃川地)土地が高くて、土をだいぶん掘り下げて、今の瑞穂町などの低いところを埋めたんですな。」

 えっ、それって東高梁川が天井川だったってことですか?
 「そうそう、今の産業道路が土手でして、その向こう側は低かったんですよ。私の家は土手の上にあったんですが、50mくらい家引きして住んでいたんです。ところがこんどは工場ができる言うんで、また立ち退いてここへ来たんです。」
 入植後の二点三転した生活の様子がよくわかります。

 「戦時中は馬車部隊ゆうのがありました。馬車を牛にひかせて、『一式陸攻(戦時中の日本海軍の爆撃機)』の翼を運んどったんです。緑色のペンキ塗りたてで日の丸も入って、その重いのを砂利道を運んどりました。私はまだ子供で、そばで『おーい、おやじイー』と声をかけたりしとりました。」

 「昭和19年は私が倉工(倉敷工業高校)に入った年です。」えっ、そうすると私の大先輩ではありませんか。しばらく倉工の話で盛り上がりましたが…。

 「終戦の年は2年生でした。倉工で集められて終戦の放送を聞いたんですが、雑音ばかりでようわかりませんでした。家に帰ってようやく終戦を知ったんです。」  「倉工にはグライダーが2機あったんです。プライマリーとセコンダリーといいました。戦後英軍がやってきて、燃やしてしまいました。そのとき、あった訓練用の鉄砲なんかも燃やしたんですね。」

 「そうそう戦後は青年団で、カモメヤングスターバンドなんかもやりました。端でクラリネットを吹いているのが私です。」

 小松原さん、お年(失礼!)に見えない雄弁さが続きました。(2016,7)

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