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倉敷市連島の名刹『宝嶋寺』のこと

 今の水島地区は江戸時代以来、東は福田地区から、また北は連島地区から、西へ、南へと干拓が続き、倉敷市福田町〇〇と、また倉敷市連島町〇〇などとなりました。最後は東高梁川の廃川地が「倉敷市水島〇〇町」となっています。そしてさらにその先に巨大な臨海工業地帯が立地して、現在の姿になったのです。

 その水島の歴史を探訪するとき、東の福田地区とともに、北の連島地区の歴史を考えないわけにはいきません。その連島地区を探訪しますと、何と言っても古刹の「宝嶋寺」です。幸い私のHPにはその宝嶋寺を訪ねたページがありました。もう10年前ですが、以下その記事をそのまま載せたいと思います。(2016,11)


 今回は倉敷市の南に連なる山並み、昔は島だった連島の『宝嶋寺』について触れましょう。「名刹」なんて書くと「それなに?」って言われそうですが、「古い由緒ある寺院」とでも言いましょうか、要するに有名寺院のことです。名寺といったほうが判りやすいかもしれませんね。
 今日は「備中倉敷学」という倉敷の歴史を極めようという団体の『宝嶋寺』見学会なのです。
 バス1台に詰め込んだ会員のメンバー、着くやいなや持物堂へ案内され、そこで「倉敷学」のメンバーでもあるご住職から『宝嶋寺』史を講義される次第と相成りました。

『寂厳和上』が書き残した巻物

 宝嶋寺というと、何と言っても寂厳和上ということになります。住職の講演も「今から10代前の寂厳和上が、巻物と冊子を残してくれました。和尚は『住職たるもの、ちゃんと記録を残さねばならない』と言っておられ、その人の残した記録は今でも貴重な資料です。その巻物を解読したものを私のお話の資料にしました。」というところからはじまりました。
 寂厳和上(1702~1771)は、備中足守藩士の家に生まれて出家、修業の後この宝嶋寺住職として過ごします。その間悉曇学(サンスクリット語)の権威として多くの著作や書を残されています釈子住職の講演はこの寂厳和上の巻物の解説から始まりました。頭の上には写真下の寂厳さんの書がかかっています。なんと、超近代的ではありませんか。

かっては大寺だった

 「ここは、備中の7本寺の一つで、弘法大師の孫弟子になる聖宝尊師が開基(859年)しています。この人が開基したお寺は、ここから京都へ向かって、段々とあります。」
 「以前は13院ともいう広大な寺域を持つ大寺だったのですが、慶長年間と、元禄年間に火災に逢い、仁王門のみを残してみな焼けています。」
 「今は仁和寺派ですが、以前は新義真言宗総本山の根来寺と関係が深く、いろんな資料が残っています。」
 「以前は寺領がたくさんあったのですが、戦乱で次第に失われ、戦国末期にようやく15石をもらっています」

小堀遠州作の庭園も

 「庭は小堀遠州の作と言われるものです。また全国に30数カ寺のみという、徳川将軍代々の位牌を収めたお寺のひとつでもあります。」 「寛文6年ごろ、備前藩の池田光政による寺院整理があり、1000寺以上が廃寺されたのですが、このときこ寺の末寺もたくさん整理にあい、多くの僧がここに帰ってきています。」  第40代住職、釈子哲定さんの講演の後は、めったに見られない寺内見学会です。ここは平安当時の古式の形式を残したお寺で、上下2段に別れていて、上段にある本堂は僧の道場としての形式を残しているそうです。また講演のあった下段の持物堂内も、コの字型の部屋配置など、古式にのっとったものだということでした。(2006,4)

持仏堂・御簾が下がって神仏混合のようです上の段にある本堂その内部。ここは修行の場だそうですが、やはり御簾が

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