干拓地の水を海へ
板敷水門などのこと
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 板敷水門という遺跡があるという情報が寄せられました。なんでも倉敷市指定の史跡になっているとか?  で、行ってみました。何でも行ってみようは私の得意技?ですので。
 水島臨海鉄道の浦田駅、その前の道を真っ直ぐに南下します。北畝6丁目交差点をすぎ、国道430号線を中畝7丁目交差点で通り過ぎます。さらに南下しますと、東京製鉄の門前を通り過ぎます。
 新しい道のため、国道にも県道にもなっていませんが、水島地域の東部、福田の中央を貫く大動脈です。「五軒屋ー王島線」というらしいのですけどね?

 さらに南下しますと、右にカーブして、水島臨海鉄道港東線という線路の踏切に出会います。その少し手前、右側にその遺跡があったのです。ま、江戸時代の水門ですから、遺跡でなくて史跡というんでしょうね?あー、ややこしい・・・・・。
 舗装が切れた草道を進んでいきますと、なんだかそれらしいものがありました。「板敷水門」です。とりあえず、カメラでパチパチ・・・。新しい説明版がありました。そのままのっけます。

旧福田新田の生命線

 「板敷水門」、これは江戸時代末期に作られた、福田新田の悪水や余水、要するに、新田内に張り巡らせた用水の水を海に流しだす施設だということです。通常は新田内の水を海に流しますが、海が満潮の時には樋門を閉めて、海水の流入を防ぐという役割を果たすのです。

 「嘉永2年夏6月」とあります。1849年にこの水門は作られたのです。福田新田干拓工事のまさに最中です。納得!!

 有名なのでは、児島湖淡水湖の締め切り堤防上の樋門が似たような役割をはたしていますね。規模は違いますが、この板敷水門は旧福田新田のまさに生命線だったわけです。

古い地図に載っていました

 あとで調べてみますと、以前に調査した「千人塚」にある説明版の古地図に、この樋門が載っているのがわかりました。地図では堤防の決壊箇所が書いてあるのですが、その堤防に、少し凹ませた、水門・樋門らしい表示があるのです。

 旧福田新田の南端には「王島山」という山(元は島)があるのですが、その左側に1つ、右側に2つの樋門があるようなのです。左側(西側)はこの板敷水門に違いありません。すごい!!

こちらの樋門は動いていました 生姫排水機場のこと

 あれっ、じゃあ、この王島山の右側の樋門は??と思いますよね。板敷水門の説明版には「(旧福田新田)の干拓地を囲む堤防には、3カ所に(略)水門が・・・」とあります。

 そう、福田新田の悪水排出樋門は一つではなかったようなんです。「王島山」の東側にも2つ??

 現代の地図で調べてみました。そうすると、どうやら1つあるようなんです。名前は「生姫排水機場」とありました。で、行ってみました。呼松から西へ。三菱化学の工場の中を通っていくような道を・・・・。
 そしてそれらしき土手にたどり着いたのです。
 で、この「生姫排水機場」、新しくなって現在でもちゃんとその役目を果たしていたのです。

 で、古い樋門は横に保存されていました。

 

 でも、この古い樋門、明治39年製(1906)と書かれています。千人塚の古地図は、明治13年(1880)の災害の模様を描いたものです。そこにある樋門は、そうしますと、もう1代前のものではないでしょうか。大水害のあとで、この樋門は改修されたもののようなのです。

 そして、現代の平成19年(2007)にも何回目かの改修がされて現在の姿になった。


 えっ「生姫」??そうです。あの生姫島です。すぐ横にありました。というところで、その件はまた後日ということにさせていただきます。(2016,10)


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