真金吹く吉備の地に
今は巨大な製鉄所が
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 水島といえば、昔は海だったのですが、それでも「吉備」の沖合、「真金(まがね)吹く吉備」の水島灘だったのです。古代に鉄の生産が盛んで「真金吹く吉備」と呼ばれたこの地。そこに今では巨大製鉄所が立地しているのです。何かの縁かもしれませんね。というわけで訪ねてみました。

JFE西日本フェスタinくらしき2017
 この日はちょうど表記の「JFE西日本フェスタinくらしき2017」というイベントの真っ最中でした。

 JFE、元の川崎製鉄が、地域の住民と交流するイベントとして1979年「第1回みずしま川鉄まつり」として開始したものだとか。もう38年も続いている、企業主催のこの種のお祭りとしては、ここらで最大のものです
 会場には、家族連れら約9万人(主催者発表)が詰め掛けたとか。秋、抜けるような青空の下、多くの出店や、ステージでは髭男爵、スザンヌ、純烈LIVEなど人気芸能人が出演してショーも行われていました。
 一方で私は、バスで工場見学会に参加、熱延工場の見学に。製鉄所のシンボルともいえる高炉から出された銑鉄を俎板状に固めた物を、真っ赤に熱せられたままで、ローラーで次第に長く薄く引き伸ばして、最後にはロール状に巻き取られた製品に仕上げる、いくつかの工程を一貫して行う巨大工場でした。長い長い工場でしたが、次第に薄くなっていく工程を見るのは壮観でした。

第一高炉火入れから50周年です
 1961年、川崎製鉄がここ水島の地に製鉄所の設置調印。そして1967年、第一高炉に火入れして操業開始してより、今年はちょうど50周年になるそうです。
 構内は岡山県内だと、早島町の面積の1.3倍もある広大なところです。

 ただ、こうして工場を見せてもらいますと、真っ赤になった巨大な鉄が材料です。危険作業の最たるもののようです。とても人が近寄れるものではなさそうで、怖かったです。
 そのためになかなか事故がなくならないようで、工場では「ご安全に」というのを挨拶にして、安全確保に取り組んでいるということでした。

工場進出以来の大先輩にお話を聞きました
 「私は西宮工場から10人くらいの仲間と転勤して来たのですが、驚きましたね。今の正門の所、『水島製鉄所』という四角い看板だけがあって、あとは何もない所だったんです。砂漠みたいな。ウワッと思いました。こんな所でどうなるんだろうと・・・」語られるのは川崎製鉄OBの黒川崇利さん(83)です。
 実はこの記事を書くにあたって、当時のことを知る方にインタビューをしたくて、色々と探そうとしました。そこでふと思いついたのが、10年前私が社交ダンスを始めたころに大変お世話になった方が、『川崎製鉄OB会ダンスサークル』を主宰なさっていたのを思い出したのです。今までも時々練習場などでお目にかかっていたのを・・・。黒川さんには気楽に応じていただけました。

 「そんなところから製鉄所を建設して今に至るわけです。でもいろいろとありましたよ。鉄鋼業界は元官営製鉄が多いところで川鉄は純粋な民間出身でしょう。『野武士』と言われたんです。水島の前、千葉に製鉄所を作るとき、一部の官僚には『そんなことをして、もうぺんぺん草をはやしてやる・・・』なんて言われて(いじめられたんです)。で、西山社長が頑張ってそれが成功して、水島にも進出してきたんです。今は元の日本鋼管と合併してJFEになり、日本のトップを争うところまできた感じです。」
 「20周年のころでしたか。『企業20年説』とかが流行りまして、鉄は基礎的な素材だけど、発想の範囲を広げていかないといけないなんて言われましてね。ま、多角化です。」


 いかにも『鉄の男』という風貌をされた黒川さん、お話は続きます。
 「当時にはシリコンプラントなども設置されたし、プラスチックなども扱って、太陽電池なども作るのを目指して『日本の瓦を全部(川鉄の)太陽電池に置き変えるんだ』と言った話がありました。」
 「そう言えば立地当初には、今の工場の沖にもう一つ製鉄所を作って、従業員を3~5万人にするんだと言う大きな構想がありました。」
 「1983年には、ブラジルのツバロンというところに現地との提携で製鉄所ができましてね。一度見学に行ったんですが、それは凄かったです。現地での従業員交流会では牛一頭を全部使ってパーティーになるんです。」

 黒川さん、その後は川崎製鉄水島労働組合の役員もされ、頑張られたようなんです。
 「この『川崎製鉄水島労組10年史』という本はわたしが幹事として編集し、当時はお金もあったし、12,000人の全組合員に配ったものです。」

 大きな分厚い立派な本を出されて、説明が続きます。
 「水島労組の結成大会が66年2月17日だったんです。その後私は執行委員になり書記長を3期勤めた後、82年9月からは4代目の組合長もさせていただきました。」
 「80年代ですが、分社化の話が来まして、それはそれは厳しい交渉でした。でも出向者の賃金労働条件は本社員並みで維持するということが取れたんです。他の大手の鉄鋼労組があとで『出向条件を川鉄並みにせよ』と要求したりしていたようです。川鉄の労使関係はもともと会社は従業員を大切にする、組合も会社を大切にするというところがあったんですね。」

 全部はとても書ききれませんが、終始丁寧な説明をいただきました。ありがとうございました。


 「真金吹く吉備」の伝統を引き継ぐ「JFEスチール西日本製鉄所」、もちろん地域環境にも配慮しながら、これからも地元水島の発展のために頑張ってほしいものです。(2017,11)


 PS:私の古代吉備の製鉄関連の記事は下記です。

総社市の古代製鉄・鍛冶遺跡を訪ねて

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