水島の戦争遺跡
亀島山地下工場
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 もう2年余り前のことになります。そこへ行ったのは。その時には「水島の歴史」を書く事になろうとは夢にも思わなかったので、記録に残さなかったのですが・・・。今こうして思い出してみますと、この亀島山地下工場跡というのは、水島の歴史で欠く事のできないものであることに気が付きました。
 で、当時の資料を引っ張り出して見ています。

 業界のOB会でした

 それは私が現役時代に過ごした業界のOB会「民放クラブ岡山支部」の歩く会での出来事でした。OB会とはいえ、何しろ色々と見て回ることの好きな集団です。その日は「水島、連島地区」を歩き回ろうということで20数人が参加して、水島臨海鉄道の水島駅を起点に歩き始めたのでした。
 最初に来たのがここ、亀島山(右写真、西側から撮影)でした。今でこそ水島の中心ともいえるところですが、かっては海に浮かぶ小島でした。それが江戸時代初期に水島灘の干拓事業で、西、連島側の拠点になり、陸続きにされたのでした。当初はこの島と連島を結ぶ三角形の干拓地が続いたものでした。(大江前新田のこと 参照)

 高さ78メートルの亀島山、今でもこの山の上からは、周囲に水島地区が一望に見渡せます。(下の写真参照)
 しかしこの亀島山、現代の水島の歴史でも大きな役割を果たし、「戦争遺跡」としてその名残をとどめているのです。


飛行機工場の疎開地下工場

 先の太平洋戦争末期、航空機が戦局を決定してきたため、当時の軍部はここ水島に三菱重工業の航空機製作所を誘致し、航空機の製造に取り組みました。昭和16年(1941)高梁川廃川地への軍事工場誘致が決まると、工場や工員住宅、福祉施設など建設のため、当時この地で農業をしていた人たちから、農地を強制的に取り上げて建設が行われました。
 そして昭和19年(1944)1月以降、当時の海軍の主力爆撃機「一式陸上攻撃機」513機、紫電改9機が作られたといいます。

 しかし米軍の空襲の標的にされるおそれがあったため、周辺の山の中などに工場機能を疎開させることになったのです。その最大のものがここ「亀島山地下工場」だったのです。
 建設したのは主に朝鮮人の労働者でした。なかには朝鮮から徴用されて来た人も含まれていました。警察の日常的な監視の下で働かされたといいます。削岩機とダイナマイトで岩盤を破砕し、つるはしやノミも使った危険な作業で、前長約2,000メートルのトンネルが、この亀島山の地下に作られたのです(写真の赤い線の部分がトンネル)。戦争末期です。このトンネル掘削は、工場からの一部移転、生産稼働と並行して行われたといいます。
 水島航空機製作所は、昭和20年(1945)6月22日の水島大空襲で壊滅したのですが、この地下工場の建設は敗戦まで続けられたのです。

「語りつぐ会」の案内で内部へ

 私たちは幸いにも、「亀島山地下工場を語りつぐ会」の人たちの案内でこの地下工場跡に入ることができました。私がまず驚かされたのは、この工場跡が文字通りの「地下」ではなく、地表と同じ高さ(レベル)のトンネルだということでした。事前に名前から想像していたのは、空襲から逃れるために「地下深く」なのかなと考えていたからです。

 まだ「公開」されていなくて、内部は真っ暗です。懐中電灯の光を頼りに進みますと、その規模の大きさに驚かされます。一部はコンクリートで固められていましたが、多くは素掘りのままのようです。

 ところどころ壁に穴があります。天井設置のための支柱をはめる穴だそうでした。
 また、機械を据え付けたた跡だと説明されたところもありました。掘り出した岩や土を運び出すトロッコ用の枕木の跡もありました。
 こうしたトンネルがこの亀島山の全域に格子状に掘られているのです。驚きました。  戦争とはいえ、すごいことをするもんだと思います。
 今また、日本全体がきな臭くなってきているようです。こうした戦争遺跡は、ぜひ公開して、私たちが戦争について考える材料にしなくてはと思いました。

「松工場」発見

 最近朝の散歩で新しい発見をしてしまいました。水島臨海鉄道の浦田駅前から北へずっと行ったところ、そう5軒屋から道路が右へカーブします。そこの山裾にその看板がありました。「五軒屋『松』疎開工場の給水塔」とあります。そう戦争末期、軍用機製造工場の疎開工場は、亀島山地下工場のほかに三カ所あったということは聞いていたのですが、その一つがここへあったようなのです。
 戦争末期、軍事基地として重要な役割を果たさされた水島。いつも散歩しているこんなところにも「戦争遺跡」が残っていたのです。以下に亀島山公園の看板とともに、写真を載せます。(2017,1)

亀島山公園入口の看板より


ーー「五軒屋『松』疎開工場の給水塔」の看板ーー
見難いので以下読み下し文(要旨)を載せます。 inserted by FC2 system
五軒屋「松」疎開工場の給水塔

 昭和20年4月12日、B29一機による空襲で機械工場が被曝すると、重要機械の疎開が以前にも増して本格化しました。亀島山の地下を網の目のように掘った疎開工場「亀」をはじめ、龍ノ口の「鶴」工場、そしてここ浦田の山北の五軒屋「松」工場と、次々分散していきました。終戦後まもなく工場は撤去され、今はわずかに残る石垣と山の中腹にある給水塔に当時の面影が感じられるだけです。
 木造で作られた工場は、空襲を避けるように山の北側のすそを切り崩し、簡単で大きな倉庫のような建物が点々と6棟ほど建てられていました。当時は、水島臨海鉄道の五軒屋駅(現在の福井駅と浦田駅の中間あたりにあった)で乗降する工員が工場まで朝夕は列をなし、そして終戦時には、工場の周りにある民家で玉音放送を聴く工員であふれていたとのことです。
 このあたりは、高梁川の伏流水が豊富で、この給水塔にポンプで水を汲み上げて工場へ供給していました。その直径は6.1mで深さもかなりあり、人が中に落ちると危険なため現在はアルミ板で蓋をしています。(文面協力:小野肇氏、鴨井清子氏、山田茂雄氏)

 注意:今も給水塔まで直接行くことができる道はありません。道らしい道は整備されていないため、落ち葉で滑ったり、土が崩れたりする場合があります。この山は民有地ですので、見学には十分ご配慮ください。
倉敷市