亀島新田のこと
連島側の新田開発その2
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 ここは「亀島神社」です。
 実は前回「大江前新田」のところで触れた「京新田(のちの亀島新田)」についてちょっと知りたいと、地図をめくっていましたら、何と「連島町亀島新田」という地名が残っているのに気が付いたのです。
 当時の亀島新田は、今はほとんどが「連島中央〇丁目」とか「神田〇丁目」「亀島〇丁目」という地名に変わっていて、古い亀島新田の様子が全く分からなくなっているようなんです。ところが、その北側、山際のところのほんの狭い範囲に「連島町亀島新田」という地名があるのです。
 で、来てみたら、この「亀島神社」に行き当たった・・・というわけです

亀島新田村が独立したとき

 このお宮さん、いかにも新しそうで広い敷地に建っています。立て看板を見ますと、由緒として『元禄年間(1700頃)に亀島新田村が独立したとき、亀島にご鎮座の本宮を勧請した』とあります。

 本宮といいますと、亀島の北の端、亀の尻尾ともいえる部分にある「亀島大明神(右写真)」のことでしょう。

 亀島新田の西の堤防の南の端にあたるこの「亀島大明神」を勧請して、堤防の北の端近くにこの「亀島神社」を祀ったに違いありません。
 そして、この堤防はそれから100年近くのち、西の浦新田や、鶴新田ができるまで、亀島新田を守ったのです。
 昔は干拓堤防の両端に、お宮などを勧請して、水の守り神にするなど、よくあったことです。

亀島新田開発の経過

 あ、そんなに単純じゃあないって!!。そうです。ここでまた、「近代干拓の歩み(渡辺義明)」から、亀島新田の経過を振り返ってみましょう。


  1.  江長前新田、大江前新田(1674)、そして茂浦前新田が連続して完成したころ、
  2.  矢柄村庄屋が、目の前の小さい地域を干拓して、矢柄新田(1664)とし、
  3.  成羽領主山崎豊治が矢柄西の浦表新田として、この広大な海の干拓を開始したのだが、容易には進まなかった。
  4.  で、成羽領主は京の町人「たわら屋五郎兵衛」に請け負わせて工事を進めた。
  5.  延宝2年、大風高潮で堤防が決壊、京の商人も開発を放棄、
  6.  その後も洪水で堤防決壊がありながらも、延宝6年(1678)ついに完成させた。
  7.  しかし、用水不足に悩まされ、20年後の元禄11(1698)年になってようやく東大川の水を取り入れる工事(竜の口用水=今の連島用水)が整備された。
  8.  名前もその間に、「西の浦表新田」「京新田」「亀島新田」と変遷した。

 とまあ、なかなかの難工事だったようです。亀島神社を勧請して祀る理由がわかろうというものです。

八丁土手とお万狐

 ここは、当時の干拓地西側の堤防跡の道路です。汐入川の東側、倉敷市連島保育園前から南へ続いています。以前は「八丁土手」と言われていたようです。

当時の堤防跡と想定される道路汐入川

 先に述べたように、この地域の干拓はここで約100年止まるのです。この堤防が100年間海との境を守ることになったのです。
 かって、連島出身の相撲甚句が得意な力士「勇駒」が、人家もなく寂しいこの八丁土手の夜道を通っていたところ、美女が現れてその美声に聞きほれた・・・という話も残っています。あ、これは実は「お万狐」という狐の化身だったそうですけど・・・

亀島水門のこと

 で、干拓地といいますと、干拓地の水を海に排水するための水門があるはずです(「干拓地の水を海へ・板敷水門などのこと 」参照)。

 やはりありました。亀島山の北側、亀の尻尾に当たる部分です。今は大きな水門になっていますが、そのお隣に、小さな石の水門が残っていました。すごい!!これが亀島新田を守った水門なのですね。
 あれっ、この水門、上に建物があります。これは珍しい・・・。全国的にも珍しい形式なのではないでしょうか?観光名所になればいいですけれどもね・・・。(2017,2)

元の亀島水門新しい現在の水門