観音堂交差点のこと |
倉敷市水島地域の道路は、どうやら北の江長(児島と連島の境)から南へ、県道188、同274、同275号線などが、放射状に延びていて、それと交わるように、古城池線と国道430号線が東西に走っているというのが大づかみな表現でしょうか。 そのほぼ中心的な位置に「観音堂交差点」というのがあります。水島地域の、特に連島や福田地域には、「やっとこ」「どんどん」「一文字」などという「これ何??」というような、変わった名前の地名や交差点があるので知られてもいるのです。 この県道274号線と古城池線の交差点である、「観音堂交差点」というのも、私が「どこに観音堂ってあるんだろう?」と不思議に思ったところでした。 あら、バスの停留所も「観音堂」になっていますね。
で、探してみました。交差点を起点に、いくつかの方向に歩き回ってみたのです。 どうやら、横の「福田町古新田」の開発のおりの犠牲者の霊を慰めるために、宝暦11年4月(1761)当時建立されたものとあります。
ここに「福田町史」があります。1953(昭和28)年に福田町が倉敷市に合併した折に編纂されたものです。その中には「観音堂の木像」と題して、次のような記述があります。 この観音堂は、もと地蔵堂として、宝暦11年4月(1761)に建立されたものです。これは沖新田(古新田)の開拓による犠牲者の霊を慰めるために建立されたものです。 (略) 嘉永6年3月(1850)に大改修が行われました。そこで新に観音の坐像を天城の某家からもらいうけて、この観音の坐像を本尊とし、地蔵堂を観音堂としたのです。 (あと、要約。文責杉原) ところがこの観音堂に、虫の食った古い木像が見つかったというのです。永山卯三郎氏(昭和時代、倉敷市黒石の郷土史家)が鑑定して「(倉敷市)林の熊野十二社権現のご神体で、元は十二体あったが、焼け残りの一体に違いない。首と胴とが、カヤの一本づくりのもので、もしご神体であればおそらく1、250年も昔のものではないかと思う。」と言われています。 (以下、それがこの観音堂(当時は地蔵堂)に収められたであろう経緯についても、想像した文が続いていますが、以下略) 倉敷市林には熊野神社と五流尊滝院があります。ここはかって、あの南北朝時代、紀州熊野神社の神官たちが北朝の圧迫を逃れて瀬戸内海を漂流し、流れ着いたという児島の地の歴史と伝説のあるところです。 そうしますと、ここにある木像は、かって紀州熊野神社にあったご神体ということになるのでしょうか?
観音堂には、解説版がありました。以下に載せます。けっこう詳しいですね。 倉敷市水島地域、ここの歴史は侮れないですね??。ちょっとした交差点の地名からも地域の歴史がたどれてしまうのです。「水島の歴史探訪」というこのHP、まだまだ続けなくっちゃと、開始1周年を過ぎて思っています。(2017,7)
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